絹人往来

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養蚕参入 衰退見かね自ら生産 渡辺 順之さん(60) 太田市石橋町 掲載日:2008/07/18


「養蚕は体力勝負」と話す渡辺さん
「養蚕は体力勝負」と話す渡辺さん

 「繭糸業者だったが、周りのみんなが養蚕をやめていく中、地域を活性化させるため蚕の生産に携わるようになった」
 10年ほど前から、妻の江美子さん(61)と自宅や近くの倉庫を使って養蚕に取り組んできた。先月20日に春蚕の出荷を終えたばかりだが、休む間もなく夏蚕が始まり、連日忙しい日々を送っている。
 「生まれた時から養蚕が身近にあった」と話すように、もともと養蚕農家ばかりだった地元で、父の代から繭糸業を続けてきた。当初は他の職を転々としたが、23歳から本格的に繭糸業者として活動。「勉強の日々だった」と振り返るように、年長の仲買人らに囲まれながら、父に付きっきりで仕事を学び、一人前として認められるようになった。
 主な仕事は農協が管理する繭の仲買に加え、農家からくず繭を集めて、製糸業者に売ること。「人手が足らなければ手伝い、桑が足らなければ埼玉の方まで買いにいった」と笑顔で振り返る。そのかいあってか、最盛期には県内で二千軒以上の農家とかかわり、その家族たちとは「親せき以上の付き合いをしていた」と目を細める。
 「農家の人たちとのやりとりに自分たちの生活がかかっている。アドバイスが実を結び、ありがとうと言われることが1番うれしかった」
 しかし、国内の絹産業全体が縮小し、近所の農家も養蚕業から次々に撤退した。最盛期には大型トラック2台分もの量を集めたくず繭も、生産技術の発達などで年々、減少していった。
 そうした状況の中、使わなくなった桑園の管理を始めたことから、「桑はあるし、育て方も知っている」と、養蚕を始めることを決意。必要な道具類を付き合いのあった農家から借り受け、大きな一歩を踏み出した。
 地元ではわずか数軒の養蚕農家となったが、「近所の人たちがよく見に来てくれる」と、繭糸業者時代に築いた交流が今に生きる。
 「菌が入った場合は全滅する場合もある」。10年の経験で養蚕の難しさを実感しているが、「養蚕振興のためにできる限り続けようと思っている」。決意は揺るがない。

(太田支社 毒島正幸)