絹人往来

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図案 草花題材に新しさ描く 石川 仙祥さん(80) 桐生市境野町 掲載日:2006/11/17


図案を手に当時を振り返る石川さん
図案を手に当時を振り返る石川さん

 「寝ても覚めても、図案のアイデアを考えていた。道を歩いている時に頭に浮かべば、メモ帳に描き込んだ。家では、めしを食う時以外、ずっと仕事場に座っていたよ」
 地元高等小学校を卒業後、都内の会社で働いていたが、父の死を機に18歳で帰郷。繭玉人形製作などを経て、足利で図案を1年ほど修業、28歳で独立した。
 「子供のころから絵が好きだった。機屋に勤めていた2人の兄の影響を受け、将来は図案をやると決めていた。でも、2人とも戦死して、(1947年9月の)カスリン台風で実家は流された。そんな状況だったから、親せきには『絵描き風情で何ができるんだ』と猛反対された。悔しくて自然と涙が出てきたのを覚えているよ」
 それでも、この世界で生きることを決めた。伊勢崎の銘仙から始めたが、桐生の機屋や買継商の勧めで、お召しを手掛けるようになった。「ガチャ万」と言われた時代を背景に、独立後1年足らずで作品は売れ出した。
 「すでに息子もいたし、食うために必死だったから、めきめきと伸びたよ。絵柄もお召しに向いていたしね」
 当時、市内の図案家はわずか8人。京都の作家も入ってきてはいたが、八王子の仕事を受けていたこともあり、昭和40代半ばまで忙しさを極めた。ピーク時は1日5枚を描いた。図案の全国大会で何度も入賞した。
 「草花を主に、毎日新しいものを描いていた。色やデザインが自然と沸き上がってきたんだ。でも、ひじをついて仕事をしていたから左肩は脱臼し、右腕はしびれている。加えて足腰を痛めたため、立って仕事をするようになった」
 昭和50年代になると、「図案屋」としての仕事が途絶える。カタログ販売などの注文を受け、ハンカチやのれん、ブラウス、風呂敷などの絵を手描きした。最近まで祭り用のシャツは人気だった。図案のころより収入があった。
 「なんでも注文通りに描いたよ。描けないというのは恥だからね。でも、やっぱり図案の方がよかったね」
 筆は捨てない。60年近く使っているものもある。抜け落ちたり、削れていてもそれぞれに使い道があるからだ。図案は描かなくなったが、筆は持ち続ける。現役を貫くための証しだ。

(桐生支局 浜名大輔)