絹人往来

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安定収入 養蚕が家族の“心棒” 須藤 金次郎さん(83) 片品村東小川 掲載日:2007/12/12


「蚕の収入が家族を支える基本だった」と語る須藤さん
「蚕の収入が家族を支える基本だった」と語る須藤さん

 「どうせやるなら大農家を目指すんだ。そう思って、家族や地域の農家と一生懸命に蚕を育てた」
 山間部に位置する片品村では、耕作に有利な平地が少なく、現金で得られる養蚕の収入は農家にとって貴重だった。
 代々続く、農家の長男。当時は石塔を手掛ける石材業中心の農家で養蚕は細々と営んでいた。それでも、幼いころから蚕に触れ、農業が好きだった。
 「昔は大農家だったと聞いていた。自分も大きな農家を営みたい」と一念発起。決まっていた就職先を断り、農業に就いた。
 父とともに水田を作り、桑園(そうえん)を開墾した。母屋に飼育室を設けて農業経営に全力であたった。
 「蚕は春蚕(はるご)と秋蚕(あきご)を育てたが、最初は母屋の座敷を飼育に使っていた。場所が足らないときは、近所の空き部屋を借りたこともあった」
 しばらくして母屋の2階を飼育室に改築。養蚕に必要な道具類も充実させた。1970年には、地域の農家と協力して下小川共同飼育所を開設。こうした努力が信頼を集め、初期の10年間は飼育主任を担当した。
 「共同飼育所の蚕は、大きさにばらつきが無いようにするのが難しかった。みんなが協力する共同作業だからね。桑くれ1つ取っても、作業に差が出ないように気を使った」
 子供は1男3女。養蚕は、桑くれや温度管理など、早朝から深夜まで手が抜けない作業だったが、能力を伸ばしてやりたい、と繁忙期でも勉強を優先するよう心掛けた。
 「それでも子供たちはよく手伝ってくれた。大学受験の直前でも、重い桑を運び、桑くれをやった。本当に感謝している」
 子供は全員が県内外の大学に進学。授業料や生活費の仕送りは大きな負担だったが、養蚕の安定した収入が家計を支えた。
 1973年から数年間は春蚕の出荷が400キロを超え、村内最多の規模になった。
 「稲作などの収入もあったが、半分は養蚕が占めた。養蚕は生活の基本、家族の“心棒”だった」

(尾瀬支局 霜村浩)