絹人往来

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高崎染 展示会で全国各地へ 白井 俊光さん(77) 高崎市新田町 掲載日:2006/08/23


「高崎染」の見本を手にする白井さん
「高崎染」の見本を手にする
白井さん

 戦後間もない1948年、高崎市九蔵町にあった旧高崎商工会議所で、市内の捺染(なっせん)業者による第1回見本展示会が開かれた。それが後に一世を風靡(ふうび)する「高崎染(ぞめ)」の幕開けだった。
 「京都の業者が、各地で展示会を開いて売り込みに乗り出していた。京都が来るなら、対抗してこちらも出てやろうということになった」
 第1回展示会で受付を担当した白井俊光さん(77)は振り返る。
 「高崎は江戸時代から染め物が盛んだったが、それは他の城下町も同じ。全国に名が知れ渡ったきっかけは展示会だった」
 白井さんは初代から数えて4代目の「白井慶蔵」にあたる。創業は1880(明治13)年。当初は織物を精練して白絹に仕上げる白張(しらはり)が専門だったが、昭和初期にはのりを混ぜた染料をすりつけて染める捺染に転じていた。
 大戦中に軍需工場への転換を余儀なくされ、設備のほとんどが失われた。戦後、4代目を継いだ白井さんは中古の機器をそろえ、1947年に操業を再開。翌年、展示会が始まった。
 高崎勢は積極的に県外へ打って出た。土浦(茨城県)、郡山(福島県)、仙台、横浜、静岡―。毎年、東日本の各地で展示会を開き、積極的に売り込みを展開した。高級品は京都に一日の長があったが、大衆品なら高崎も負けていなかった。
 「展示会の後は近くの得意先を回ったり、飛び込みで営業したり。若い人も多くてファイトがあった。京都に負けない技術はあったし、値段が安いので、取引先にとっても魅力があった」
 問屋が仕切る京都勢の展示会に対し、高崎勢は製造業者が直接運営していた。苦労は多かったが実入りも良かった。売れ行きは拡大に次ぐ拡大。「高崎染」の名を全国に知らしめた。
 やがて、東京や熊谷(埼玉県)の業者も追随するが、各地を飛び回る高崎勢ほどの行動力はなかった。1960年前後にかけて、高崎染は最盛期を迎えていく。
 「確かに京都は本場。でも、高崎は京都からも『(問屋ではなく)工場のくせに、なかなかやるな』と一目置かれるようになった。それが『高崎捺染』の誇りだ」

(高崎支社 宮崎岳志)