かぶら社 自分も機械もフル稼働 今井 勝さん(74) 富岡市七日市 掲載日:2006/09/08
製糸工場跡の建物が残る場所で当時を振り返る今井さん
鏑川北岸で1993年まで製糸工場を操業していた富岡市の甘楽富岡蚕糸農業協同組合かぶら社。繰糸部門が廃止される前年の92年まで工場長を務めた。
「立ち上げの構想段階から携わり、工場長に就いた18年間は全力投球だった。うちに帰っても生糸の相場が気になった。のんびりしたことはないな。振り返ってみても自分なりによくやったと思う」
「かぶら社」は地元にあった製糸工場の機械などを譲り受ける形で75年に始動した。
「初めは甘楽富岡地域で作られる繭の加工から販売までやろうと思った。『農家があっての農協』と言っていた先輩の思想を受け継いだ。繭は金の粒という気持ちで扱い、繭を無駄にしないで1キロでも多く生糸にすることだけを考えてきた。協同組合は理屈じゃない、農家とのふれあいなんだよ」
操業5年後には生糸生産量が5万キロを超え、収繭量は目標だった30万キロを上回った。その後は工場内の自動化を進め、生産の合理化と技術の向上を図った。
「自動繰糸機で働いていた女性は30人ちょっと。自分も機械もフル稼働で毎日忙しかった。1982年には乾燥場と倉庫を作って、ボタン一つで入荷した繭を乾燥場まで運ぶ仕事ができるようにオートメーションにした。少ない人数で効率よくするためで、当時としては画期的だったかもしれない」
87年に片倉工業富岡工場(旧官営富岡製糸場)が操業を停止。甘楽富岡地域で唯一、大規模な自動繰糸機を備えた製糸工場として残った。
「片倉工業がなくなって寂しかったが、しょうがない。ただ、何としてもおれはやっていきたいという気持ちになった。組合は農家のもの。農家を守り、報いるためにも“灯”は消せないと思っていた」
退職した翌年に「かぶら社」は幕を閉じた。現在でも工場跡に建物は残っており、別会社が使用している。
「繭を運んだエレベーターもまだ残っている。ここに来ると一生懸命働いていた時のことを思い出す。いまは碓氷製糸しか組合製糸がなくなってしまった。昔は兄弟みたいなものだったから、これからも頑張ってほしい」