絹人往来

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染色 織物の評判決める技 橋本 広一さん(72) 桐生市天神町 掲載日:2006/07/8


さまざまな色の糸を手に、現役時代を振り返る橋本さん
さまざまな色の糸を手に、現役時代を振り返る橋本さん

 絹糸が織物になるまでには15工程ある。撚糸(ねんし)、整経、機織り…。機屋をピラミッドの頂点に、“鉄人”たちが技を結集させる。その中でも重要な工程の1つが染色。橋本広一さん(72)が長年携わってきた分野だ。
 「握るとギュッギュッと音がする。これが絹鳴り。普通はこの感触をシルクとしてイメージすると思うが、うちに来る糸は固くてごわごわしているんだ。これをせっけんやソーダで精練するとつやが出て“味”になる。機械でやるとこの味が薄れるため、麻袋に糸を入れ、釜のお湯に浮かして精練する昔ながらの方法にこだわった。その代わり、手間暇かかったよ」
 桐生工業高校卒業後、実家の染色工場で仕事を始めたが、父の死去に伴い3年後、本格的に跡を継ぐ。小学生から父の仕事ぶりを見ていた「門前の小僧」は20代前半である程度の自信をつけていたが、苦労もあった。
 「色はきりがない。機屋さんの希望の色にするには大変だった。織物になってから『もうちょっと明るくして』と言われたりして、調整することもあった。色は見る人の感覚でも違ったように見える。キャリアを積んでやっていくしかなかった」
 染めるのは合繊ではなく、絹専門だった。当時大流行した「桐生お召し」を中心とした着物や、帯、ネクタイに使用する糸を主に手掛けた。昭和30年代から40年代にかけて忙しさは頂点を極めた。市内の「染め屋」約50軒は、皆休む間もなく働いた。
 「お得意さんは最多で二十数軒あった。第1、3日曜日しか休みがなくて、土曜日になると休むために残業した。いわゆる『ガチャ万』の時代。それが当たり前だったんだ」
 桐生織伝統工芸士。秩父織にもかかわった。70歳で引退するまで、この道一筋だった。最盛期は工場に10人の職人がいたが、最後の10年は夫婦二人で「橋本の色」を守り続けた。
 「『これ、色がいいね』と、織物を見た人は最初に言うでしょ。色はね、織物になった時一番目立つんだ。いろんな人の手を経て織物になるが、色と味で評判が決まってしまうんだ。その人たちのことを思えば、きちんとやらなければと常に思っていた。そのような緊張感の中で、品質を保てたことは、今でも誇りを持っているよ」

(桐生支局 浜名大輔)