絹人往来

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養蚕技術 母の勧めで知識習得 永井 なか子さん(78) 沼田市下久屋町 掲載日:2008/04/24


思い出の道具を手にする永井さん
思い出の道具を手にする永井さん

 「養蚕が好きになったのは母のおかげ。母の背中を見てきたから、農家の仕事も苦にならないで続けられた」
 20歳の時に養蚕農家へ嫁いでから、本格的に養蚕を始めた。支えになったのは、母のさえさんと、県蚕業試験場で学んだ知識だった。
 「11歳の時に父を亡くしてから、母が女手一つで育ててくれた。早く家族の支えになろうと、中学卒業後、軍需工場で働こうとしたら、母は蚕業試験場に進むよう勧めてくれた。子供に技術を身に付けてほしいと考えたのだと思う」
 県蚕業試験場の講習で1年間、当時最新の飼育技術を学んだ。養蚕農家と同じように寝ずの番で蚕の世話をするなど、厳しいものだった。
 講習を終えた後、地元農協の養蚕教師や県蚕業取締所で事務職をした。
 「養蚕教師の時は自分より年上の人を教えることもあったが、若いからといってばかにされたことはなかった。みんなまじめで、話を一生懸命聞いてくれた」
 結婚すると、朝3時に起き、夜12時に眠るまで蚕の世話と家事に追われた。それでも蚕への愛着は深まった。
 「人から見れば大変だったかもしれないが、私には当たり前の生活。育てれば育てた分、糸を作ってくれるので自然と蚕が好きになった」
 稚蚕から丁寧に育てたので、近所の農家が40キロしか繭が取れない時も、60キロ近い量を収穫できたという。
 「育てるのに失敗したことはなかった。失敗すれば収入がなくなるので真剣だった」
 しかし15年ほど前、沼田市内で蚕が繭を作らない原因不明の病気が発生、人生で初めて不作の年を経験した。
 「繭を作らずに大きくなっていく蚕を処分する時はつらかった。袋に入れて土に埋める時、思わず涙がこぼれた」
 12年前、一緒に作業していた夫が亡くなり、養蚕を辞めることになった。
 「しばらく養蚕のことが頭から離れなかった。続けたい気持ちを振り切ろうと、家にあったほとんどの蚕具を近所の養蚕農家に贈った。今でも蚕を育ててくれるので、ありがたく思っている」

(沼田支局 田島孝朗)