絹人往来

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共同飼育 農業と養蚕を両立 黒岩 巌さん(74) 嬬恋村西窪 掲載日:2006/08/26


「庭起きのころは、家中がてんてこ舞いだった」と語る黒岩さん
「庭起きのころは、家中がてんてこ舞いだった」と語る黒岩さん

 高冷地に位置する嬬恋村。遅霜の影響を避けるため、生産は夏蚕、秋蚕に頼っていた。
 「うちは夏と晩秋で、年に2回飼った。春は田植えが忙しかったから飼えなかった」
 養蚕が盛んに行われていた30年ほど前までのことだ。嬬恋の春は、短い夏に合わせた田植えや種まきの時期。農業の傍ら養蚕を営む農家には、春蚕まで手が回らなかった。
 「それでも蚕は大事だった。短期間で金になったから…。間違いなく収入の根幹をなしていた」
 畑のまわりに桑を植え、畑地に向かない土地は桑畑にしたりと工夫した。
 昭和20年代後半から、各地区ごとに共同飼育が始まった。組合員が集まりやすい場所に建てられた飼育所は、朝晩の冷え込みを避けるために土壁でできていた。
 「西窪は10軒ぐらいで組合をつくって、みんなで『毛蚕(けご)』から飼った。2センチくらいになるまで育てて、各戸に配った。うちは一番多く飼ったのでよく世話人になって、桑くれの当番を決めた。共同飼育の間はおやじが蚕の面倒を見ていたので、おれは畑仕事に専念できたので助かった」
 共同飼育所を技術指導員が回り、飼育方法を教えた。作業効率も上がり、以前より安定した養蚕ができるようになった。
 「それまでは、2階の一部を紙で囲って空気の流れをさえぎって飼っていた。どの家も成績はよくなったと思う」
 7月中旬ごろから育て始めた蚕は、下旬ごろ各戸に分配された。
 「8月10日ごろまであまり桑を食べないので畑仕事ができた。でも『庭置き(5齢の蚕)』の時期になると、畑仕事をほっぽり出して家中総出で桑をくれた。暗いうちに起きてまず蚕に桑をくれて、明るくなったらすぐ桑切りにいった。暑くなると葉っぱがしなびちゃうから、本気で刈った。毎日夜遅くまで4回も5回も桑をくれた。本当にてんてこ舞いだった」
 当時、現金が入ってくるのは繭を出荷する夏から農作物が収穫できる秋にかけてのみ。共同飼育は短い期間で農業と養蚕を両立させる工夫だった。
 「一日の労働報酬を考えれば蚕のほうが良かったかもしれない。共同飼育のおかげで助かった。外に働きに出なくて住んだのは蚕のおかげ」

(中之条支局 吉田茂樹)