絹人往来

絹人往来

蚕の心 村一番の作り手に聞く 尾池 倶子さん(84) 桐生市黒保根町下田沢 掲載日:2006/12/9


「道具を見ていると、また蚕を飼いたくなる」と話す尾池さん
「道具を見ていると、また蚕を飼いたくなる」と話す尾池さん

 「蚕は生活するための糧。農業をしている人は多かったけれど、養蚕が年間で一番大きい収入だった」
 1947年から養蚕を始めた。嫁ぎ先は明治時代から養蚕業を営み、当時は約400キロの繭を扱う「百貫蚕(ひゃっかんがいこ)」だった。当時の黒保根町は養蚕が盛んで、家の周りには囲むように桑の木が植えられていた。
 「昔は所狭しと桑の木が植えられていて、うちの畑も桑原(くわばら)なんて呼ばれていた。それでも桑の葉が足りないときは、桑とりの職人に頼んで、山に野生している桑を採ってきてもらった」
 蚕を飼うのは年間4回。繭が仕上がるお盆時期は、いつも忙しかった。
 「桑の葉を餌に蚕が育ってきて、体が透き通ってきたら『ずう』になる。こうなったら糸を吐き始める。繭をつくり始めたら、わらで編んだ『まぶし』に移す。この作業は人手が足りなくて大変だった」
 繭ができたら、汚れた「中繭」と中で蚕が死んだ「無精繭」を除いて、「上繭」だけを選び出す。
 「繭は農協に納めて、伊勢崎や桐生の工場に卸されていた。当時は伊勢崎の銘仙や桐生の織物が盛んだったから、良いまゆをつくれば重宝された」
 養蚕器具が発達していなかった時代、餌の配合や与えるタイミング、成長に応じた手入れなど、繭の生産量は作り手の技術に左右された。
 「しゅうとさんは、村で一番お蚕が上手だった。どうしたらたくさんの繭が採れるのか聞いたら、蚕と話しをしなさいと言われた。私も蚕の気持ちを考えるようにしたら、出来量がうんと増えた」
 夫婦で続けていた養蚕も1965年ごろにはやめて、現在はサクランボ農園を営んでいる。桑の葉を重ねて蚕を育てたかご、繭のけばをとるためのけば取り機。愛着のある道具は、今は蔵の奧にしまってある。
 「蚕はちゃんと育てれば、寝てる間に大きくなった。私はお蚕が好きだから、道具があればまた飼いたくなる。だから、使っていた道具はほとんど人にくれちゃった」

(桐生支局 高野早紀)