先生 黄金期に養蚕を指導 高橋 岩雄さん(79) 高崎市寺尾町 掲載日:2006/06/29
養蚕群馬の黄金期から衰退期まで、養蚕指導に携わった高橋さん
「50~60代の人から先生と言われるんだから、若いころはきまりが悪かったよ」
高橋岩雄さん(79)は1948年から定年退職の82年まで、農林省蚕桑普及員、いわゆる養蚕指導員として養蚕振興にかかわった。種(卵)の紹介から栽培技術、桑の栽培、繭の出荷まで養蚕一切の技術を指導するのが仕事。農家は「先生」と頼った。
安中蚕糸学校(現安中実業高)を卒業し志願して特別幹部候補生に。陸軍航空隊として終戦を現韓国・水原飛行場で迎えた。復員して高崎農業会に入り、農協設立とともに群馬高崎養蚕連(郡養連)に属した。「養蚕の仕事は給料が良かった。月給1200円くらい。市役所の職員にうらやましがられた」という。
受け持ったのは出身地の高崎市片岡町。畑地が多く、戦後の食糧増産から現金収入となる養蚕に切り替える時期だった。380戸の養蚕農家を一戸一戸回ったが時間が足りない。
「それで地区ごとに集まってもらって集団指導を始めた。これで、だいぶ楽になった」
ピークは60年代。「年3回はく(飼育する)」のが普通だったが、技術の向上もあり増産に次ぐ増産。
「春と夏の間に1回、晩秋蚕の後に1回か2回と年に7回はく家もあった。繭は最高1キロ2500円で売られた記憶がある」。まさに「お蚕さま」だった。「目標は100貫(375キロ)げえこ(蚕)。1トン養蚕家も誕生した」
生き物を扱う仕事。天候の影響もある。春先の霜には悩ませられた。53年の大凍瘡(とうそう)害では、一夜で桑が全滅した。ちょうど埼玉県は畜産に移行していて、高橋さんは桑を買いに回った。それでも農家は飼育を断念するか、規模を縮小せざるをえなかった。温度、湿度が原因で蚕がびらん状になる軟化症、白くなる硬化症に見舞われたこともある。上簇(じょうぞく)しても売れる繭にならない。農家はもちろん、指導員も落胆した。
指導員は国家試験。高橋さんは蚕糸学校を卒業したため免除だったが、2年ごとに更新しなければならない。退職後も92年まで更新を繰り返した。
長く群馬、日本の繁栄を支えた養蚕。「いつかまた、という期待があったんだけどね」。黄金期を知る人の思いが、その言葉に込められていた。