絹人往来

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養蚕指導員 飼育場の管理を徹底 川内 久さん(79) 邑楽町藤川 掲載日:2008/05/17


思い出の蚕具を手にする川内さん
思い出の蚕具を手にする川内さん

 「農家の長男で田畑はあったけど、お金がなかったからね。現金収入を得るために養蚕指導員になったんだ」
 20歳のころ試験に受かり、技術研修のため数年間、前橋や沼田で寮生活を送った。
 「邑楽郡から3人が研修を一緒に受けた。県内各地から来た80人ぐらいが同時に養蚕を勉強。実際に蚕を育てながら、温度管理など養蚕のポイントを学んだ。1年間の勉強が終わった後には先生の助手もした」
 蚕を観察して、餌の量や温度が成長に与える影響を記録する仕事を任された。
 「朝が早いし、細かい数字を相手にして疲れ、つい居眠りをして先生にこっぴどく怒られたよ」
 研修が終わると、給料をもらいながら邑楽町や大泉町を中心に農家へ出向き養蚕を指導。「あっちの家に行ってこっちに来なかったと言われないよう、農家を回る時は大泉なら約50軒、邑楽町なら約30軒と集落を一遍に回った。蚕の育ちが悪いと農家から文句が出るから、気を使った」と当時を思い返す。
 地区の共同飼育場設置などにもかかわり、養蚕の効率化に努めた。「飼育場の管理と運営は自分の仕事。掃き立てから3齢目まではしっかりと大きくなるように温度管理に注意していた」
 養蚕農家が製糸会社へ繭を納品する時には検査に立ち会い、1部の品質検査用の繭を前橋の試験場に持ち込んだ。
 「繭が羽化しないように、その日のうちに運ばなければならなかったから、特別にいい自動車を借りた。どんなに遅くなっても届けなければならず、大変だった」
 自分の家でも養蚕を手掛けていたが、「養蚕指導員が仕事だから、自分の家のことはほとんどできなかった。妻に完全に任せていたよ」と話す。
 7人のきょうだいがいたが、家を継ぐために約15年続けた指導員を退いた。家ではその後も養蚕を続けたが、約15年前に繭価の下落などもありやめた。
 「農閑期に開かれた宴会には来賓として出席したり、楽しく飲んだよ。一生懸命働いた後に飲む酒は格別だった」。多くの人と一緒に働き、遊んだ日々は今でも宝物だ。

(大泉支局 宮村恵介)