絹人往来

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伊勢崎絣 職人の熱意伝えたい 金沢経明さん(68)伊勢崎市波志江町 掲載日:2006/09/06


自ら手掛けた絣のサンプルを手にする金沢さん。「手作りの素朴さが絣の発展を支えた」と語る
自ら手掛けた絣のサンプルを手にする金沢さん。「手作りの素朴さが絣の発展を支えた」と語る

 哀愁と華やかさを兼ね備え、全国に名をはせた国指定伝統工芸品の伊勢崎絣(かすり)。1958年から機屋を営み、絣の製造販売を通じて人々にその魅力を届け続けた。
 「素朴さと温かさが絣の一番の良さ。丈夫で軽く、よそ行きではなく普段着として誰もが親しめたから一世を風靡(ふうび)したのだと思う」
 父が機屋の下請けで製織を手掛ける「賃織り業」を営んでいたこともあり、幼少時代、いつもそばには絣があった。20歳で店を構え、彩色豊かな併用絣や細かな模様の板締め絣、曲線のある華やかな柄が特徴のほぐしもよう絣、素朴なしばり絣とあらゆる絣で市民の生活を支えた。
 「絣はほとんどの工程を手作業で行う。職人の誇りや熱意が手を伝って模様に変わる。だからこそ、括くくり、染色、製織などそれぞれの工程を受け持つ下職の人たちの気持ちと技術を把握することが、機屋の一番重要な仕事だった。そうすることで思い描いた柄や形につながるんだよ」
 自らデザインした着物が伊勢崎織物のポスターのモデルとなり、京都や名古屋の呉服店で飾られるなど業績が最盛期だった七八年、店を畳んだ。四十歳だった。
 「経営が行き詰まってたわけではない。商売も順調、不自由なく生活できたが、世の中が普段着としての着物を必要としなくなっていた。なぜやめるのかという声を方々から聞いた。でも、自分の選択は間違ってなかった」
 やがて、生活様式の変化から着物の需要が減り、伊勢崎絣は衰退する。
 今でも、青春時代をともに駆け抜けた絣を手に取ることがある。
 「当時は少しでも良い着物を作ろうと夢中だった。ふと眺めていると、絣の技術の素晴らしさをあらためて感じる」
 2004年、絣の伝統技術の保存継承を図ろうと、市内に織物ボランティア団体「絣の会」が誕生した。数少ない男性会員として、市内の小学生を対象にした機織りの指導などに取り組んでいる。
 「絣の伝統を後世に伝えるのは絣に魅せられた者の使命。若い世代には、歴史や技術を学び、職人たちが持ち続けた気概を肌で感じ取ってもらいたい」

(伊勢崎支局 堀口純)