絹人往来

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蚕室 種繭づくりに日々充実 酒井 昌三さん(75) 前橋市小坂子町 掲載日:2007/05/30


蚕室で蚕を飼育する酒井さん
蚕室で蚕を飼育する酒井さん

 年間2トンを超える収繭量を支えた鉄骨の蚕室で、蚕の卵を採るために使う種繭がつくられている。
 赤城山南ろくの前橋市小坂子町に生まれ、代々、米麦と養蚕を家族ぐるみで営んできた農家を自然な形で継いだ。
 「地区内に飼育所ができたこともあり、これからは多角経営より養蚕専業の方が安定し、経営は堅いと思った。なかなか踏ん切りがつかない人もいたが、あのころは自分も若かかったしね」
 父親からバトンを渡された4代目、40歳を前にした思い切った決断だった。周辺の農家も養蚕に力を注ぎ、産地化も進んだ。専業に切り替えた経営が徐々に軌道に乗る。
 だが、活況も長くは続かない。下落する繭価や後継者不足から養蚕は下火になり、飼育所は閉鎖に追い込まれる。1980年代半ばだった。
 「手をかければかけただけの成果がある。飼育の環境は最高だったし、機械化が進んで作業は省力化され、技術的にも自信があった。いい繭ができるねといってもらえるとうれしかった」
 専業を決断した意地もあった。養蚕から撤退する農家が目立つ中、産地振興を担ってきた1人として気を吐いた。最盛期は、年7回掃き立て、収繭量2トン超えが続いた。
 「一時繭価が上がって日の光が向いてきたと思わせる時期もあって頑張ることができたが、体力的に衰えてきたし、低迷していく繭価が追い打ちをかけた。先行きはどうかなと感じたときに、種繭をやらないかと県蚕糸技術センターから声をかけてもらった」
 自宅の庭にどっしりと建つ2階建ての蚕室。1981年、養蚕に本腰を入れるため思い切ってつくったものだ。四半世紀の間、産地の盛衰を見守ってきた建物は現在、県オリジナル蚕品種の種繭分場としての役割を担う。緑の桑の葉を元気よく這(は)う蚕と向き合う日々。妻の春子さん(77)と夢を紡いできた養蚕への思いは変わることはない。
 「養蚕に明け暮れた毎日は、充実していた。体の続く限り、これまでやってきた流れでこの道に携わっていくしかない。群馬から養蚕の灯が消えないことを願うが、もっと生糸が売れないとね…」

(前橋支局 山形博志)