稚蚕飼育所 農家の気持ち一つに 五十嵐邦義さん(72) 高崎市栗崎町 掲載日:2007/1/19
技術員時代から仕事の状況を記録した日誌を手にする五十嵐さん
1957年から94年まで群馬高崎養蚕連合会の蚕業技術員を務めた。JAたかさき組合長になった今、技術員時代を振り返れば、高崎市岩鼻地区と前橋市元総社地区で稚蚕飼育所設立に携わった思い出が浮かぶ。
「飼育所ができる前は、個々の農家が蚕をタネから育てていたから作柄が安定しなかった。時には蚕が全滅することもあった。経営が安定しないので養蚕をやめてしまう農家も多かった」
ふ化直後の蚕を育てるには、細心の注意を払って蚕室を消毒しておく必要がある。温度、湿度の管理も難しい。最も困難な最初の一週間、地区全体の農家から蚕を預かって共同で育てる飼育所は、経営安定に欠かせない存在とされていた。
「特に元総社は宅地化が進んでおり、1966年に初めて担当した時は『こんなところで、できるのか』と不安だった」
アンケートで意見を集め、農家を説得して合意を取り付けた。建設費は半分以上を国や県の補助金でまかない、タネ屋にも資金援助を求めることで、農家の負担を最小限にとどめた。
「それまでは集落ごとに別々のタネ屋から仕入れていた。その仕入れを一本化する条件で援助を受けられた。後には出荷先の製糸業者も一本化、他より好条件で繭を買い取ってもらった」
完成は67年。約110軒の農家が参加した。
年3、4回のシーズンには1週間ほど飼育所に泊まり込み、当番の養蚕農家と一緒に蚕を世話した。睡眠時間は4時間ほど。桑取り、給桑(きゅうそう)、温度・湿度の管理と楽ではない仕事だが、楽しかった。
「特にうれしかったのは、農家に喜んでもらえたこと。『蚕はもうやめようかと思っていたけど、飼育所ができて仕事を続ける気になった』と言ってもらえた」
作柄が安定して養蚕離れに歯止めがかかり、収量も向上した。意外な効果もあった。地域にまとまりが生まれたことだ。
「飼育所ができる前は『あの集落はもうかっている』などのねたみなどがあり、農家の気持ちがバラバラだった。タネ屋や製糸が一本化され、条件が他地区より良くなったことで皆の気持ちが一つになった」