絹人往来

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飼育指導 回転蔟へ転換勧め成果 竹渕 武治さん(79) 中之条町中之条町 掲載日:2008/05/16


「吾妻郡養蚕業の変遷」を手に笑顔を見せる竹渕さん
「吾妻郡養蚕業の変遷」を手に
笑顔を見せる竹渕さん

 旧中之条農業学校(現中之条高)を卒業し、県の蚕業試験場で2年間養蚕を研究後、吾妻郡養蚕事業農業協同組合連合会に就職。1983年から参事となり、吾妻郡の養蚕業の普及と技術向上に努めた。
 「当時は養蚕が農家の生活の糧だった。なんとか農家の収入を上げるため、収繭量を伸ばすことと繭の品質向上に必死に取り組んだ」
 生産性を上げるため、個々の農家で行っていた作業を地区ごとにまとめて行う稚蚕共同飼育場整備を推進。1950年代後半から60年代にかけて郡内各地区に建設し、作業効率を上げた。
 「いろんな飼育場があったが、66年に完成した嬬恋村の大前協業共同飼育場が特に印象に残っている。浅間山が近いせいか、桑園に桑を植えるのに土が硬くて掘れなかったので、ダイナマイトを使って何とか掘った。約27ヘクタールの桑園が桑の葉で青々としたときはとてもうれしかった」
 繭の品質向上には、わら蔟(まぶし)から回転蔟に切り替えることを勧めた。取り組みが功を奏し、57年に112キロだった1戸当たりの上繭収量が、85年には280キロまで伸びた。
 86年、吾妻郡の養蚕業の歴史と動向を「吾妻郡養蚕業の変遷」と題した本にまとめ、農協や各役場、郡内の組織委員に配布。同年、連合会の解散と当時に退職した。
 「毎年蚕が活動する時期になると、各農家や共同飼育場を回ったりして昼夜に関係なく休日も仕事。非常に忙しい毎日だった。とにかく養蚕一筋でやってきたから、当時のことは忘れられない思い出だ。今でも新聞などで養蚕関係の記事は必ず読んでしまう」
 共同飼育場は、今ではそのほとんどが使われなくなったり、別の建物に建て替えられた。
 「これも時代の流れ。ただ、郡内でも六合村の赤岩地区など、産業遺産として養蚕文化が復活してくれるのは大変うれしい。仕事で赤岩には何度も行ったが、また訪れてみたい」と語る。
 「今の群馬県の農家は養蚕なくしては語れない。そういった意味でも、世界遺産登録運動に期待する。ぜひ世界遺産になってほしい」

(中之条支局 入山亘)