絹人往来

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養蚕の舞 村の伝統守り50年 山口 晋司さん(68) 渋川市北橘町下南室 掲載日:2007/4/26


養蚕の舞で使用した島田蔟を手にする山口さん
養蚕の舞で使用した島田蔟を手にする山口さん

 北橘町(旧北橘村)下南室。かつてこの1帯は養蚕が盛んだった。同地の赤城神社で活動する下南室太太御神楽豊穂(かぐらほうすい)講に「養蚕の舞」が生まれたのも、生活と密接だったからだ。養蚕の最盛期に青春を迎えてから、講員として50年間、村の伝統を守ってきた。
 「自分が講に入ったのが18の時。農家で養蚕をやってない家はなかったぐらい。2つの稚蚕共同飼育場があり、80戸ほどが利用していた。農家の長男21人しか講に選ばれなかったので、仕事も祭りも頑張ろうと意気込んでいた」
 1950年代、養蚕用具の変遷とともに、舞台道具も変化した。養蚕の舞で使われる簇(まぶし)が手製のものから機械製の島田蔟になったのもこの時期だ。
 「小学生ぐらいから家でも使っていたのでなじみ深かった。養蚕の舞など愛嬌(あいきょう)舞は約1時間の長丁場だが、手慣れた道具だから複雑なしぐさも何とかなった」
 当時は全27座を日没までかけてやった。だが養蚕の陰りとともに勤め人が増え、舞の意味が伝わりづらくなったため10座ほどに減らした。講員の条件から「農家」という文字も消えた。祭りの日時も伝統の4月4日から第1日曜日へと変わった。
 「もともと農閑期の祭りだった。これが終わると桑の木を“彼岸切り”した。この時期に新芽を出すことで、葉が茂るころに夏蚕を迎えた。でも、今の生活に合わないなら変えるしかない」
 講長就任中の4年を含め、10年近く改革に努めた。それも5月20日の引退で終わる。
 「下南室に2軒残っていた養蚕農家が、今春辞めてしまった。養蚕の舞の意味を知る人も徐々にいなくなるだろう。でも、講を支えて、若いものと頑張った時間は本当に楽しかった」
 赤城神社の本殿前に1本の木がある。「招霊(おがたま)の木」と呼ばれ、特徴的な赤い実は神楽鈴のモデルになった。94年に宮崎県の岩戸神社から山口さんが苗をもらい、育てた。まだ葉をつけるだけで花は咲かない。
 「自分が生きているうちに、花が咲いて、実がなってくれるとありがたい」
 置き土産に、後継者への思いを込めた。

(渋川支局 田中暁)