上蔟室 天井の繭から人生訓 宮田 忠助さん(70) 川場村中野 掲載日:2006/05/27
上蔟室に眠る宮田さんの養蚕道具。部屋には蚕のにおいが強く残っている
階段のない二階建ての物置。はしごを壁にかけて2階に上ると、かつて養蚕をしていた時の竹かごやさくなどが置いてある。「ちょっと天井を見てごらん」と指さす先には、蚕の繭が壁にへばりついていた。「成長した蚕をここに集めて、回転蔟(まぶし)で繭を張らせる部屋だったんだよ」と 上蔟(じょうぞく)室の役割を説明する。
幼いころから養蚕を手伝い、家を継ぐと稲作と兼業だった養蚕を専業にし、水田をすべて桑畑に変えた。妻の通子さん(71)とともに、初夏から初秋にかけて小さい蚕に桑の葉をやる小蚕(こば)飼いを年6回行ってきた。
「川場は山間部だから春が遅くて秋が早い。桑が採れるのは夏の短い間だけ。だから1、2回目の小蚕飼いの時には、藤岡や新田とかの平野部に買いに行ってた。昔は交通の便も悪かったから、行くのはよいじゃなかったんだいね」
1970年ごろから85年ごろにかけ養蚕業は全盛期を迎え、毎年3トンを超える繭を生産。74年には知事から農業経営士認定証を受け、76年には蚕を成長別に育て上げるため、8つの小屋を備える養蚕屋敷を建てた。
「養蚕じゃあ人に負けないって自信があったから、蚕で家を建て替えるのが夢だったんだよ。この家自体が今に残る養蚕の記憶でもあり、誇りだいね」と目を細める。
このころ、川場村は東京都世田谷区と交流を開始。養蚕体験をするため、屋敷には年間で80人ほどの区民が寝泊まりに来ていた。上蔟室で実際に蚕や繭を触らせるなどしながら、人生訓を伝えたこともあるという。
「蚕が上蔟しないで壁をつたって仲間を見失うと、困った揚げ句に天井に繭を作るんだ。だから、天井の繭を子供たちに見せて、『いいかい、人間も道を間違えるとあんなふうに孤独になっちゃう。自分の道をしっかりと進めよ』って言い聞かせた」
平成になり、養蚕だけでは採算がとれなくなると、道具は上蔟室にしまわれ、小屋も農耕機や米の乾燥機を置く倉庫へ姿を変えた。
それでも、屋敷はかつての面影を残し、隅々に蚕や桑の葉のにおいが染み付いている。「今もそのにおいは好きだし、天井の繭を見ては、昔を思い出すんだ」