技士 工場の心臓部守り抜く 斉藤 正義さん(76) 富岡市七日市 掲載日:2007/2/9
片倉工業富岡工場からの表彰状を手に当時の仕事を語る斉藤さん
「ボイラーがなければ、繭の乾燥や煮ること、繰糸もできなかった。いわば工場の心臓部だと思う。一日中、気の抜けない仕事だったし、汗水流しての重労働が続いていた」
富岡市の旧官営富岡製糸場の流れをくむ片倉工業富岡工場でボイラー技士一筋。14歳で働き始め、1987年に同工場が操業停止するまで、現場の動力源を守り続けた。職人としての気概が厳しい仕事を支えた。
ボイラーの部屋から各建物につながるパイプで蒸気が通り抜け、あらゆる作業に利用された。蒸気は工場運営に欠かせないものの一つといえる。
「ボイラーでできた蒸気が乾燥場のパイプを通っていくんだ。中には扇風機が回っていて、熱い空気で繭を乾かしていた。乾燥だけじゃなく、煮繭(しゃけん)や揚げ返しの作業に使っていたし、食堂や暖房にも利用していた。工場の中で蒸気はすごく必要だった」
生糸生産量の増加につれ、1950年ごろには勤務体制が2交代制に変更された。前半は午前5時から午後1時まで、後半は同10時までの区分になったという。
「朝のボイラー担当が寝坊したら、その後に続いている仕事が間に合わない。午前4時には煮繭場の担当が来るから、それまでに作業ができるようにしなければいけなかった。一人で先に行って、午前3時半には仕事を始めていた。ボイラー担当は裏方だけれど、縁の下の力持ちとして頑張ってきた」
仕事中は、めったに圧力計から目を離すことはなかった。常に圧力計を見て、蒸気を一定量に保つのが大切だからだ。
「パイプがそれぞれの建物にひいてあるので忙しい。同じくらいに圧力を守るのが精いっぱいだった。ベルトに塩がふいて、ざらざらになるほど汗をかいた。いま考えてみると、若い時でも大変な仕事だった」
時代の流れとともに燃料も変わり、ボイラーを動かすための手作業はなくなった。それでも工場内でボイラーの役目が終わることはなかった。
「操業が停止するまで、ボイラーが工場の心臓部だと思ってきた。重油になって仕事はだいぶ楽になったが、ボイラーの仕事に対する責任は変わらなかった。自分の仕事が工場の役に立っていたのがうれしい」