絹人往来

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機屋 独自の帯作りたい 井上 義浩さん(31) 桐生市境野町 掲載日:2007/05/08


「機屋は自分が作った商品で人を感動させられる仕事」と職場で話す井上さん(左)
「機屋は自分が作った商品で人を感動させられる仕事」と職場で話す
井上さん(左)

 「機屋(はたや)に生まれ、桐生は日本の機どころと信じていた。でも、東京では自分の周りの人は誰もそれを知らなかった。有名なのはソースカツ丼くらい。悔しかった」
 仕事で触れ合った外国人や友人と会話していた時、「機どころ桐生」が知られていないことを感じた。
 映画の脚本家にあこがれて大学卒業後、東京で雑誌ライターのアルバイトをしていた。25歳でテレビ番組の制作会社に入社。グルメ、報道、音楽番組のアシスタントを経験し最後に洋楽の番組制作に携わった。
 一昨年12月に制作会社を辞めた。帰郷して約100年の歴史がある家業の井清(いのきよ)織物(桐生市境野町)に入社した。30歳だった。
 「かつて桐生は機屋の訓練校があって、職人は繊維のイロハを覚えた。今は学校はないし、誰かが指示してくれるわけじゃない。だから、働く職人さんを見て自分で覚えるしかない」
 新しい生活がスタートしたのは翌年1月の仕事始め。最初に任されたのは工場の掃除や糸置きの整頓などだった。
 「電話番、出荷、注文受け、生産管理などをしている。合間を見て実践的な機織りの勉強、故障した織機の直し方も覚える。本当にでっち奉公みたいな毎日。だけど、面倒でも今のうちに基本を学ばなくては駄目。後でやろうと思ってもできない」
 最近は帯の色、図柄、デザインを考えている。
 「帯はいろいろな種類があり、うちの主力商品は『紬(つむぎ)の帯』。自分が織った品物は、まだとても人に見せられないけど、将来は自分なりの表現で独自の帯が作れるようになりたい」
 物づくりという観点から、かつて励んだテレビの制作も、意匠の考案も原点は同じと考えるようになった。
 「高齢化に伴う職人の減少は桐生の大きな痛手で、その穴は若者を中心にアイデアで補うしかない。全国から『桐生で和装を作りたい』『機屋ってかっこいい』と思う人が集まればいい。3年間はとにかく雑用でも下積みでも頑張る。それが一番の近道だと信じている」

(桐生支局 五十嵐啓介)