絹人往来

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蚕具 苦心と工夫随所に 竹村 正雄さん(67) みどり市笠懸町鹿 掲載日:2007/12/11


蚕具を手に「子供の時からの思い出が詰まっている」と語る竹村さん
蚕具を手に「子供の時からの思い出が詰まっている」と語る竹村さん

 桑摘みや桑を与える際に使う竹かご、蚕を飼うむしろをのせる竹枠、そして座繰り。当時蚕室だった納屋の2階には蚕具が所狭しと置かれている。
 「祖母が座繰りの前に座りハンドルを手で回し、煮えたった鍋から数本の糸を取り出して撚(よ)りをかけながら巻いていた。汚れたり傷ついて出荷できないクズ繭を自家用の糸にしていた。苦心と工夫が随所にある。子供の時からの思い出が詰まっていて、なかなか捨てられない」
 笠懸は昔から水利に恵まれていなかった。
 「このあたりは水田がなく、米がとれない。夏はサツマイモと陸稲。その間に小麦、ダイコン、ニンジンを作っていた。ニワトリを飼っているのに卵を食べたのは病気の時だけ。豚も10数頭肥育しているのに、豚肉は仲買人が少し置いていく程度だった」
 それだけに現金が入る養蚕への力に入れ方は強かった。物心ついた時から当たり前のように『お蚕さま』中心の生活だった。農家だけでなく学校も全面協力した。尺取り虫が桑の柔らかい新芽を食べてしまうので、4月には早退させ、虫取りを奨励したという。
 「枝と同じ色になっているので、見つけるのが大変。袋に入れて学校に持っていくと『よく取った』とほめられた」
 最盛期には蚕を春、夏、晩秋、晩々秋の4回飼った。特に春蚕は1番多く、120グラム。別棟の蚕室だけでは足らず、母屋も蚕だらけになった。
 「成長するにしたがって、徐々に蚕のスペースが増え、家族は寝る2間だけになった。桑を食べる音と臭いに閉口した」
 晩秋蚕は枝を切らずに手で桑の葉を摘んだ。人さし指に「クワつめ」をはめ、葉を1枚1枚親指との間に挟んで摘む。
 「小遣いほしさに兄弟で競争したよ。焦ってクワつめが右腕に刺さったこともあった」
 養蚕は1968年まで父母が中心になって行った。父親から「好きにして良い」の言葉をもらったのを機に、トマト栽培の施設園芸に転換した。

(わたらせ支局 本田定利)