絹人往来

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買い継ぎ商 「景品付き」販売を発案 斉藤 良三さん(83) 伊勢崎市曲輪町 掲載日:2008/04/04


商売の記録や絵絣を手に「技術のあるうちにどんどん作ればいい」と語る斉藤さん
商売の記録や絵絣を手に「技術のあるうちにどんどん作ればいい」
と語る斉藤さん

 1950年、伊勢崎市の買い継ぎ大手「下城」に入社し、銘仙の産地、伊勢崎と全国の問屋の仲介役として50年近く働いた。
 「地元の機屋から品物を買い入れて問屋に売る仕事。担当した機屋の製品は売ってやらなければならない。問屋が何を欲しがっているのか、情報を集めて機屋に教えた」
 入社後、しばらくは売れに売れた。買い継ぎ商の間で問屋の奪い合いになることもあった。
 「一流の問屋になると二またをかけてきた。京都の問屋が本庄駅に着いたというので迎えに行ったら、他の買い継ぎ商も来ていた。時にはけんかにもなったよ」
 激しい競争に勝てたのは、日ごろの付き合いの深さがあったからだ。
 「夜行を乗り継いで全国を回り、問屋とも機屋ともよく酒を飲んだ。普段から懇意にしていれば、いざという時に信用してもらえる」。67年に同社を退職後、「斉藤商店」を起こして98年まで仕事を続けた。
 買い継ぎ商としての足跡の1つに、景品付きの反物販売がある。52年ごろ、地元の機屋「平達織物」、大阪の問屋と考え出したものだ。
 「平達さんが織った鍾馗(しょうき)さまの図柄を仮表具して、正月祝いに問屋に渡した。問屋はこれを景品として、仕入れに応じ呉服店に配った。これが当たって売り上げが前年の5割増しに。気を良くして翌年から十二支シリーズを手掛けた。景品付きの販売の始まりだった」
 この仮表具したものが、額や掛け軸にして販売されている絵絣(えがすり)の原型になった。日本人の生活様式が変わり、反物が売れなくなってからは、絵絣が贈答品として需要を広げていった。伊勢崎ならではの伝統工芸品として知られている。
 伊勢崎織物買継商組合理事長、伊勢崎織物協同組合副理事長を歴任。現在は同協同組合顧問として、銘仙のまちの行く末を見守る。
 「今ならまだ、高い技術を持った織り子がいる。技術があるうちに、どんどん作ったらいい。いいものは決して無駄にはならない」。伊勢崎の機屋の技を知っているからこそ、業界に対して注文を付ける。

(伊勢崎支局 久保田健)