絹人往来

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乾繭倉庫 市の近代化シンボル 久保田悦也さん(77) 太田市下田島町 掲載日:2006/11/29


資料を手に、新田乾繭農協連合会の活況を語る久保田さん
資料を手に、新田乾繭農協連合会の活況を語る久保田さん

 太田市浜町の東武伊勢崎線沿いにかつて、「乾繭倉庫」の愛称で親しまれた鉄筋コンクリート造り3階建ての建物があった。1985年まで新田乾繭農業協同組合連合会が使用。そこの最後の職員だった。
 「地元の旧宝泉農協で働いていたが、連合会の担当者が欠け、70年ごろ移った。養蚕農家の人間だったから、後任の対象になったのだろう」
 同連合会は、一帯から生産される繭の集荷、乾燥、保管業務を担い、事務所のほかに倉庫3棟、乾燥場、乾燥機2機などを備えていた。
 「370平方メートルくらいの乾燥場に生繭を入れ、10時間くらいかけて乾燥した。多い年は120万キロも扱った」
 鉄筋コンクリートの建物は29年の建設で、一号倉庫と呼ばれた古い施設。勤めていた当時は1階を米麦用に使い、乾燥を終えた繭は2、3階に保管していた。
 「1束18キロを10束上げられるコンベアに乗せ、リフトで運んだ。荷主は8―9割が館林市の神戸生糸だったが、長野県岡谷市周辺の生糸会社も、この辺で買ったものを乾燥で預けていた。あっちの繭、こっちの繭が飛び交っていたよ」
 特に忙しかったのが春と夏、晩秋蚕の3回だったという。
 「シーズンになると1週間から10日間ほど、福島県から女性中心に50人くらい作業員が来た。地元からも20人。総勢70人が2交代で作業にあたった」
 「昼間は福島の人が中心。男性は事務所2階の宿泊施設を使い、女性は近くの住宅を借りて泊まった。地元の人は、昼間は家業の農作業をやって夜間従事が多かった」
 同連合会は27年設立の東毛乾繭販売利用組合が前身で、85年の解散後、同市の近代化のシンボルとも言える各施設は市の所有に。道具置き場や書籍、古い書類などの保管所として利用されたが、太田駅周辺区画整理事業に伴って2000年に解体された。
 「解散後も、しばらくは残務整理に携わっていた。倉庫の中には、資料を残したままだった。今となっては惜しまれる」
 数少ない資料を手に当時の活況を語った。

(太田支社 北島純夫)