動滑車 蚕、2階へ楽々運ぶ 植原 享子さん(77) 館林市上早川田町 掲載日:2006/11/15
「滑車を使ったこの方法で、上蔟する蚕を2階に上げた」と話す植原さん
曽祖父が建てたという、土間のある築130年ほどの典型的な養蚕農家に現在も暮らす。かつて蚕を上蔟(ぞく)した間仕切りのない2階には、回転蔟(まぶし)を保管している。今年1月に亡くなった夫の貞治さんと昭和57、8年まで30年以上にわたって養蚕を営んだ。
約30坪の2階は「子供の運動会ができるくらい」の広さで、上蔟室として使った。吹き抜けの天井になっていて、屋根替えするまでは高窓が二つあり、周囲の窓は光が反射しないように、紙障子が入っていた。
21歳の時に子供がいなかった植原家の養子となり、23歳で貞治さんと結婚した。
「夫は米麦農家の出身で、蚕を飼ったことがなかった。最初は大変だったけれど二人で頑張り、繭で100万円以上の収益を上げて農協から表彰されるくらいになった」
上蔟する蚕をかごに入れて、狭い急階段を上るのはつらい作業だった。巡回している養蚕教師から教わり、門柱と二階の窓枠を動滑車とロープ二本で結び、蚕の入ったかごを二階へ引き上げるようになった。
「階段上りはよいじゃなかった。簡単な装置だったけど、ロープを引っ張るだけで蚕を上げられるようになり、本当に楽になった。人手も省力化され、10年以上使った」
最後の12、3年は、仲間たちと掃き立てした稚蚕を3眠まで共同飼育するようになった。「下早川田に共同飼育場があり、桑切りは仲間と世間話ができて楽しかった」と思い出を話す。
自宅北側を流れる矢場川の堤防内に、桑畑があった。「堤防内の畑は“アクト”といって、この辺りの農家はみんなアクトを持っていた。一人で桑取りに行くのが怖いくらい一面の桑畑だった」。
共同飼育後に配蚕された蚕は自宅南側のバラックで飼った。現在も農機具置き場として残り、米麦用のコンバインなどとともに、桑の葉を運ぶのに使ったテーラーや、糸をはき始めた上蔟前の蚕を敷物からふるい落とす電動機械を保管している。「上早川田で最後まで蚕を飼っていた証し。まだ使えますよ」。スイッチを押すと、機械が大きな音を立てて振動し始めた。