八丁撚糸 絹糸1メートルに撚り3000回 藤井 義雄さん(83) 桐生市琴平町 掲載日:2006/07/21
八丁撚糸機を前に語る藤井さん
「昔は猫もしゃくしもお召しを求めた」。戦後、桐生の織物産業が隆盛を迎えて「ガチャ万」と呼ばれた時代は、店頭に並ぶ前の、機屋の庭先に天日干ししてある絹布にまで問屋が群がった。
「織物なら何でも売れる時代」だった。作れば売れるムードが急激に高まるにつれて、さまざまな製品が登場した。人絹を使うことで原料費を抑えた「交織(こうしょく)お召し」も作られた。
「問屋が機屋を訪れ、『箱入り娘を下さい』と言った。交織お召しを求めての言葉だった。機屋にとって質を下げたお召しでも、問屋にとっては大切な宝だった」
「好景気が進むと、安い中国産の生糸を使い、撚よりの回数を少なくした安物が出回った。織物の質は当然下がった。『桐生お召しは雨にぬれるとすぐに縮んでしまう』と言われ、がっくりしたこともある」
経営していた藤井撚糸(ねんし)工場は八丁撚糸を扱う撚糸業者。八丁撚糸機は1メートルの絹糸に3000回の撚りをかけ、お召し独特の風合いを出すために不可欠な強撚糸を作り上げる。
「織物の独自性を出すため、機屋ごとに自分の撚屋を持っていた。うちもお得意さんの要望に応えてより良い強撚糸を、と精いっぱいやった」
子供時代から住む琴平町は、ほとんどの家が撚屋を営んでいた。まちを流れる赤岩用水路の両岸に動力用の水車が連なっていたのを、おぼろげながら覚えている。
「学校帰りに、道沿いでいくつもの水車が回っていた。冬も絶えず動き続けていたから、水しぶきがつららとなって水車に張り付いていたのが印象に残っている」
八丁撚糸一筋の父の背中を見て育ち、八丁撚糸とともに生きた。
「機屋さんが織物を大切に扱っていた気持ち。撚屋が八丁撚糸に懸けてきた情熱。その時代を見てきたから、桐生お召しの素晴らしさが忘れられない」
今は八丁撚糸機保存会の副会長として、八丁撚糸機を後世に残すために活動している。
「もう八丁撚糸機を動かせる人は数少ない。自分がやらなければ忘れられてしまうから、今は一時でも長く生きたいと思っている」