絹人往来

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土室育 夜中に起きて炭火調整 中島 美正さん(82) 安中市下磯部 掲載日:2007/2/14


火災後に再建したバラックで語る中島さん
火災後に再建したバラックで語る中島さん

 1960年代、土蔵造りの飼育室で温度管理しながら稚蚕を育てる「土室(どむろ)育」が普及した。近所の農家と県道沿いに十基の土室を作り、共同飼育場を立ち上げた。
 「導入前、県蚕業試験場に泊まり込みで講習を受けに行った。土室育は温度や湿度が保てるため作柄は向上するが、炭火で温度管理するので夜中でも起きて火を調整する必要があった。責任ある仕事でやせるような思いだった。あの緊張感は言葉では言い表せない」
 やがて市内全体に広まり、他地域の養蚕組合が視察に訪れたり、小規模農家からの委託飼育も受けるようになった。
 一家を悲劇が襲ったのは1980年2月、手狭だったバラックを建て替えようと解体した直後だった。廃材を燃していたところ、わらや養蚕かごに火が移り、母屋が全焼してしまった。
 「当日は風が強く、養蚕にも使っていた総2階の母屋があっという間に燃え上がった。残ったのは蔵だけ。寒い時期に家もバラックもない。切なくて、今でも思い出すと涙が出てくる」
 一時は田畑を処分することも考えたという。
 「農家仲間だけでなく、近くにできたばかりの団地の住民が炊き出しで助けてくれた。土地は売らずに頑張ろうと家族で一致団結した」
 その年の春蚕(はるご)の飼育に間に合うよう、まずはバラックを建て直し、プレハブの仮住まいで暮らした。生活再建のため、近辺の農家では最も早く夏蚕の飼育を導入した。
 「田植えの時期と重なり大変だったが、とにかく必死に寝る間も惜しんでやった。蚕のおかげで家も再建できた」
 幸い取引値が好調で最盛期は年に6回出荷、年間2トンに達した。条桑(枝付きの桑の葉)での飼育法が盛んになってからは収量も増えた。
 「桑が足りなくなりオート三輪で買い出しに出掛けた。市内はもちろん、仲間と大型トラックを借りて新町や玉村まで売ってもらいに行った」
 共同飼育場は83年に閉鎖した。
 「かごから計量器、断熱材の入った扉まですべて入札方式で欲しい農家が引き取り、売り上げを取り壊し費用に充てた」
 自身は7年前まで養蚕を続けた。火事の際支援してくれた住民とは今でも野菜を贈るなど、交流が続いている。

(安中支局 正田哲雄)