絹人往来

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桑作り 肥料欠かさず青々と 植木金二郎さん(76) 太田市薮塚町 掲載日:2006/10/28


蚕を飼育した網を手にする植木さん
蚕を飼育した網を手にする植木さん

 終戦間もないころから、半世紀にわたって養蚕を生業としてきた。出荷の時期は年5回。「周りの養蚕農家と、競争のつもりで繭を作った。そのために、餌になるいい桑を作ることが必要だった」と振り返る。
 所有していた桑畑は約1ヘクタール。「自分の朝ご飯の前に、蚕にご飯を食べさせなくっちゃならなかったからね」。朝の早い夏、作業は午前4時半の起床で始まった。
 「“アメリカ”は小さいうちにつまんでおかないと、大変なことになった」。桑の最大の敵は葉を食べるアメリカシロヒトリだった。戦後、米軍の物資とともに上陸した毛虫は、桑の葉をよく好んだ。畑を見回ると、アメリカシロヒトリに食べられて葉脈だけが残ってスカスカになった桑の葉に気付く。悔しい思いをした。
 「袋を持って回り、体長が一センチになる前に見つけて取る。あとは日なたの道にポイと置いておくだけ。処分は簡単だったんだけどね」。始末しても始末しても、害虫との戦いは続いた。
 桑の肥料は、鶏ふんを使った。欠かさなかった時季は4、6月の年2回。肥料のおかげで、桑の葉は青々となった。町の共同飼育所から運んできた蚕に食べさせるのに、仕事のやりがいを感じた。ビニールハウスの端から端に、ナイロン製の網をつるして蚕を載せて飼育し、桑の葉を食べさせた。
 サラリーマンなら定年退職を迎える還暦を過ぎても、養蚕の仕事にますます熱が入った。「まだまだ、いい繭を取りたかった」。向上心が高まり、生産量は年間800キロに上った。しかし、病気には勝てなかった。
 1995年に腸の大病を患い、2カ月間入院。妻、きみ子さん(73)は夫の入院中、約1ヘクタールもあった桑畑の木を掘り起こして、野菜畑にするという強行策に出た。
 きみ子さんは「もう、体力的に無理。でも、退院したらまた養蚕をやりたがるに決まっている」と当時の思いを吐露する。
 「一番の蚕、桑を作るのが生きがいだった」。桑畑から野菜畑となった土地を見ながら、植木さんは目を細めた。

(太田支社 塚越毅)