絹人往来

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はかり 親子3代の奮闘支える 板垣 信吉さん(74) 伊勢崎市東本町 掲載日:2008/02/13


使われなくなって42年がたつ横糸を量るはかりと板垣さん
使われなくなって42年がたつ横糸を量るはかりと板垣さん

 持ち上げるとずしりと重い。塗装が1部はがれているが、40年ほど前まで現役だったはかり。高さ約30センチ、てんびんの長さは約50センチ。てんびんには匁(もんめ)とグラム、2つの目盛りが刻まれている。
 「祖父の茲信(しげのぶ)が機屋を創業したのが1918年だから、そのころから使っていたのかね。これで柄のついていない地糸と柄が染めてある絣(かすり)の2種類の横糸を量って、縦糸を巻いたお巻きと一緒に機を織る織り子さんに渡した。重さの単位は匁。グラムは使わなかった。同じようなはかりはどこの機屋にもあったはず。3代目の私が機屋をやめる66年まで狂わずにちゃんと使えた。このはかりは働いたね」
 出征した父、春吉さんが37年、中国・南京で戦死したため終戦直後、高校を卒業する前から茲信さんを手伝った。
 「戦前は輸出用の織物を織ったけど、戦争が始まると織機は鉄の供出でなくなってしまった。戦後、縛り絣を高機で織ってもらう機屋を始めた。糸を仕入れて紺屋や整経、縛り屋など下職を回り、お巻きを用意して、織り子さんに渡す前に最後にする仕事が、このはかりで横糸を量ることだった」
 通った太田高校にはお巻きを担いで行って、学校の帰りに織り子さんの家に寄ったこともあった。
 「織り子さんは旧伊勢崎市内はもちろん境、赤堀、桐生市内、太田市内にも抱えていた。織り子さんの家を回って自転車で1日70キロから80キロ走ったこともあった。そのおかげで足腰は鍛えられた。昼間は伊勢崎でお巻きを用意して太田に行くのは、ほとんど夜だった。電車で太田駅まで行って駅に置いておいた自転車で織り子さんの家を回った。終電に乗り遅れた時は、月明かりを頼りに自転車で砂利道を帰ってきたこともあった」
 反物の織りの良しあしは手で触ってみれば分かったが、織り上がった反物の重さでも分かった。
 「高機の打ち込みのいい人は横糸をたくさん使った。だから反物も重くなった。このはかりで反物を量ることもあった」。はかりの示す匁の数字が反物の出来不出来を示してくれた。
 「はかりは今も物置の棚に大切にしまってある」。活躍したはかりは捨てられない。

(伊勢崎支局 田中茂)