転職 絣技術ビデオで残す 小此木悦次さん(83) 伊勢崎市除ケ町 掲載日:2007/2/10
自ら手掛けた絣を手に、教員に転職した思い出を語る小此木さん
「機屋を辞め、教員という未知の領域に挑戦したが、なんとかやれた。いろいろな生徒と触れ合い、いろいろなことを学び、自分の世界が広がった」
素朴な味わいが人気だった伊勢崎絣(かすり)を製造していた小此木家。自らも代々続いた機屋を継いだが、やがて不況の波にさらされ店を閉めた。その後、伊勢崎工業高校工業化学科の教員として第二の人生を踏み出した。
戦時中の1943年に出征し、仕事は中断。終戦後、自宅に戻り、妻や妹、従業員と8人で絣を作り続けた。
「絣は丈夫で軽くて着やすいことから、普段着として人気を呼んだ。それぞれの機屋さんは競っていいものを作っていたから、誰よりも良いものを織るという信念が自分を支えていた。眠る間も惜しんでただがむしゃらに働いたよ」
伊勢崎絣が栄えていた30年ごろ近所には、英国製のオートバイがいくつも止まっていた。絣の技術が伊勢崎の地盤と市民の生活を支えた時代を象徴していた。しかし、生活様式の変化から着物の需要が減り、絣は衰退した。
「問屋や買い継ぎ商がつぶれると持っている手形は空手形になった。店を畳んだ後も、機織りに使っていた残糸と借金の処理など、仕事はたくさん残っていた。妻は伊香保まで残糸を売りに出掛けた。出稼ぎは3年も続いた」
時を同じくして助手として伊勢崎工業高に入り、その後、試験を受けて教諭となった。定年まで化学を教えた。
「弓道部の顧問として生徒をインターハイに導くなど教員生活は充実していた。しかし、繊維関係の授業をしたいという葛藤(かっとう)もあった」
85年、同校は学校の特色を形に残そうと、絣の作り方や織物についての授業風景を1本のビデオにまとめた。その際、機屋時代の経験を生かして養蚕や機織りの技術を生徒や教員にアドバイスし、ビデオ製作に携わった。
「ビデオ製作で、自分を虜にした織物を後世に残す役割を果たすことができ、教員生活に達成感を添えることができた。今でも絣の伝統が伊勢崎に生き続けていることに誇りを感じている」