運送 牛は欠かせない労働力 市川 伸夫さん(70) 六合村小雨 掲載日:2007/1/20
「朝4時に起きて急斜面で切ってきた桑をくれた」と話す市川さん
かつて、養蚕が盛んだった六合村。村全体が山間地で、平らな土地が少なく、主な収入源を養蚕に頼るしかなかった。
「子供のころは、村の南部の家はほとんど蚕を飼っていた。忙しい時期は朝早くから夜遅くまで蚕の世話をしたが、短い期間で稼げるので重要な産業だった。金になるのは、養蚕と冬の炭焼きくらいしかなかった」
傾斜に桑を植え、わずかな平地では自分の家で食べる麦や雑穀、野菜などを育てた。
「今、スギ山になっているところは、ほとんど桑畑だった。桑畑にするには、山の斜面そのまんまのところもあったし、多少は段々畑みたいにしたところもあった。それでも、なから急斜面だったからね」
土地利用における制約。畑作には向かない土地でも桑が育つことが、養蚕を盛んにした理由の一因だった。
「夜が明けて多少明かりが差してきたころ、あぜ道みたいなところを登ったり、下りたりして桑を切りに行った。一番奥にある畑で、道から十分以上登ったところにあった。手前にある畑の日もあれば、かなり登らなきゃいけない日もあった」
養蚕の仕事をする父の仕事を本格的に手伝うようになった戦後は、牛に引かせた荷車に切った桑を乗せて運んだ。
「牛になる前は、馬の背に乗せて運んだ。牛がいる道端まで背負い出さなければいけなかったから大変だったけど、馬の2倍も3倍も積めるようになってだいぶ楽になった」
荷車を引く牛は「運送」と呼ばれ、どの家でも労働力として欠かせなかった。
「牛はだいたい、和牛か朝鮮牛だった。新しい牛に換えるときには、大きくなった牛が売れてお金がもらえた。仕事をさせても、えさをくれて肥えるから。2年かそこらで換えていたけど、ちょっとした収入になった」
牛による「運送」は、車などに取って代わられる1960年ごろまで利用された。
「それこそ、牛とか馬がいなかったら、いっぱい蚕を飼えなかった。人間が背負ってくるんじゃたかがしれてるからね。動物さまさまだよ」