絹人往来

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農業経営 父の教えで町内一に 小谷野一二さん(74) 太田市別所町 掲載日:2007/09/27


給桑台を前に、父との思い出を語る小谷野さん
給桑台を前に、父との思い出を語る小谷野さん

 太田市別所町の養蚕農家の2男として生まれた。兄は生後間もなく亡くなっており、小学生で手伝いを始めた。父、芳雄さんから多くのことを学び、小泉農学校(現・大泉高校)に進学した時には、養蚕に関することはある程度理解していたという。
 「授業は養蚕の基本を学び直す点で、ためになった。だが、飼育所の温度や湿度は各農家によって違うから、家で作業するなら父の指導の方が実践的で役に立った」
 父の教えをほぼ吸収した高校生のころから、桑取りだけでなく、飼育所の温度管理も任せられ、父と肩を並べて作業した。成長の証しとも言える収繭(しゅうけん)量は年々増加。和子さんと結婚し、さらに拡大した。
 「人手が多くなったのが収繭量が増えた理由の1つだけど、作業する人が多いだけじゃだめなんだ。むしろ、桑畑の確保や、効率的な人の使い方が重要。父はこの辺に優れていた。だから収繭量が、どんどん増加したんだよ」
 芳雄さんの指示で、自動車運転免許を取得したのは21歳。周囲で自動車を見かけることは、ほとんどない時代だった。和子さんも34歳で運転免許を取った。当時、同町で免許を持っていた女性は数人しかいなかったという。また、徐々に増やした桑畑は、12000平方メートルもあった。
 40代のころは年間収繭量が1トンを超え、町内で1番大きな養蚕農家になった。しかし、50代後半でやめた。同町には、まだ多くの養蚕農家が残っていた。
 「やめた理由は、父の優しさ。私はもともと体が弱くてね。父が『心配だから、養蚕はもう終わりだ。これからは桑畑を利用して不動産で頑張りなさい』と言ってくれたんだよ。収繭量や収入が減った訳ではない」
 芳雄さんの提言のおかげもあり、現在は家族に囲まれ、元気に暮らしている。
 「養蚕のいろはを教えてくれただけでなく、私の体を気遣って先祖から続いた養蚕をやめるように言ってくれた父には、感謝をし尽くせない。仏壇に手を合わせる時は、必ずありがとうと言っているよ」

(太田支社 松下恭己)