絹人往来

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飼育所 作業工夫、充実の日々 藤生長蔵さん(83) 太田市薮塚町 掲載日:2006/09/07


施設の紹介が掲載された薮塚本町広報を見ながら、共同飼育所の様子を説明する藤生さん
施設の紹介が掲載された薮塚本町広報を見ながら、共同飼育所の様子を説明する藤生さん

 「日本一の共同飼育所で春蚕の掃き立て1万8千グラム」
 1968年5月25日付の薮塚本町広報に大きな見出しが躍っている。同年から始動した薮塚本町稚蚕共同飼育組合の飼育所の記事だ。一蚕期で最大2万4千グラムの蚕種を掃き立てられる日本最大規模の共同飼育所だった。
 「新聞やテレビで取り上げられたり、各地から多くの人が視察に訪れてくるほどでした」
 この年から同組合員として共同飼育所で働いた。
 実家は京都の呉服屋。農家に婿入りし、米作などは手伝うことはあったが、養蚕にかかわることはほとんどなかった。だが、組合に入って2年後、同飼育所で現場監督にあたる飼育主任に抜てきされた。
 「少年時代に満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍にいた。軍隊みたいなもので、そこで効率よく動くということが身に着いた。そんなところがあって、周囲の人たちが推薦してくれたのではないか」
 大きな飼育所だけに、人や時間をいかに効率的に管理できるかどうかで繭の生産高が大きく変わってくる。日々の仕事は重圧もあったが、大勢の人を動かし、切り盛りすることに充実感を感じていた。
 「桑くれや清掃、お茶の時間などをしっかり決め、無駄な時間がないようにと工夫しました。かかあ天下という言葉は、養蚕で頑張る女性を“うちのかかあは天下一”とたたえる意味。だから女性のことを一番に考えた。管理する立場として一生懸命働いたが、それができたのは、働き手の人たちの活躍があったからこそ」
 76年から81年まで組合の理事長を務めた。その後、県内の繭は中国産の安価な繭に押され衰退し、組合は85年に解散し、飼育所はなくなった。
 「人生で一番頭と体を使った場所」と振り返る飼育所での出来事で忘れられないのは、77年、作業の効率を飛躍的にアップする自動給桑機を国と県、同町の助成金で十連導入したこと。
 「これまでで一番大きな仕事だった。導入した時はうれしかった。あの時のことを思うと、今でも元気が出ます」

(太田支社 松下恭己)