絹人往来

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計画書 共同飼育場と飼料普及 前原 勇さん(77) 高崎市八幡町 掲載日:2006/12/14


当時の資料を見返す前原さん
当時の資料を見返す前原さん

 「3齢までの10日間、蚕室の温度、湿度管理は本当に大変。農家の奥さん方の心労を解消し、作柄を安定させたかった」
 1959年ごろ、県内各地で稚蚕共同飼育場の設置が始まった。当時は富岡蚕業事務所に在籍し、養蚕集落への説明や補助金申請のための計画書の作成に追われた。
 「大きい部落で1年で8カ所作ったこともある。夜、養蚕農家に集まってもらって説明すると、『人に任せるのが心配』『経費の負担はやだ』と反対意見も出た。でも2時間も話をすれば納得してくれた」
 朝3時に起き、自宅で計画書を作ってから出勤する日々が続いた。共同飼育場の知り合いから「前さん、泊まってくんねいかい」と請われ、蚕室で一緒に寝たこともあった。
 「30、40人分の蚕となると不安で、相談相手がほしかったんだろう。20代半ばで若いからできたけど、夏場は暑くて大変だった」
 共同飼育場の登場は、養蚕の効率化を格段に進めた。蚕が腐る「違作」が減り、省力化が進んだ。さらに「みんなの気持ちが一つになり、やる気も出て切磋琢磨(せっさたくま)するようになった」と振り返る。
 県内各地の蚕業事務所を渡り歩き、退職後は稚蚕人工飼料センターの技監に。蚕ととことん付き合った45年の間で、画期的な技術革新は共同飼育場と人工飼料という。県庁に転勤した79年、同センターの構想、設計を手掛けた。
 「全国どこにもオートメーションで人工飼料を作るモデルがなかった。どんな工程で桑が粉末になり、餌になるか。具体策をゼロから検討した」
 県蚕業試験場が開発した人工飼料『くわのはな』の自動製造工場。枝から葉を分別し、蒸し、乾燥、粉砕の工程と、粉末を原材料と混ぜ、ようかん状にして包装する工程。お茶やコンニャク製品などの工場視察を重ね設計図を仕上げた。
 突貫工事で完成したセンターはフル稼働を続け、県内の90を超える飼育場に卸すなど人工飼料の普及を支えた。
 「この道に入って自分なりに努力した結果、少しは貢献できたかのと思っている。いい仕事ができたと誇りを感じている」

(高崎支社 多田素生)