桑集め 東奔西走、かき集める 坂本 岩雄さん(75) 大泉町寄木戸 掲載日:2007/08/21
数年前まで使っていた養蚕道具を手にする坂本さん
「桑は5反ぐらい使って育てていたけど、足りなくなることが多かった。父親はよく手配師に桑を頼みにいっていたな。夕方、近所の酒屋さんに行くと手配師が1杯飲んでて、その人にどこで桑が余っているか聞いて用立ててもらったんだ」
自分の代になると、手配師はいなくなり、桑が足りない時には県の指導員が用意。山間部に桑を買いに行き、トラックいっぱいにして持ってきてくれた。
「日差しのなかを1日掛けて運ぶから、半分ぐらいはしなびていてね。新鮮な桑としなびた桑をセットにして不公平がないように配っていたよ」
桑は近所でも融通し合った。上蔟(ぞく)前の家が近所を歩いて、先に終えた家の桑をもらった。
「人手のある家は畑がなくても、桑をほかの家から買うことを前提にたくさん蚕を育てていた。逆に人手がない家は、桑をたくさん作っても蚕を育てられないから桑を売っていたね」
時には栽培している桑だけで足りなくなり、農家が庭に植えて大きくなった桑の木からも葉をとることもあった。
「改良されて葉を多く付ける桑じゃなかったから、蚕にあげる葉はいくらも採れなかったよ」
それでも、「蚕は桑をくれなければ5日ぐらいで勝手に繭を作りはじめちゃうから、こっちも必死だった」
桑が足りない時は東奔西走してかき集めたが、1963年に卵大の大きなひょうが降った時には桑畑が壊滅的な被害を受けた。その年の蚕の飼育をあきらめなければならなかった。
「暗くなってから、利根川の橋の上までいってね。そこから蚕を捨てたんだよ。手間暇掛けて育てた“お子さん”を捨てるんだから、涙が出たよ」
養蚕は2000年に辞め、今は稲や野菜を育てている。
「繭の値段が安くなって辞めたけど、日本人は着物を着る民族。いつか必ず養蚕が復活する日が来ると信じている」