機織り 残り糸使い自分用も 宮沢 ウサ子さん(78) 玉村町樋越 掲載日:2008/11/26
「自分で織ったもの一つ一つに思い出がある」と話す宮沢さん(左)と水島さん
玉村町樋越地区の機織りは、伊勢崎銘仙を織ることがほとんどだった。隣の伊勢崎市から機屋が来て仕事を依頼していくことが多かったためだ。宮沢さんと近くに住む水島八千代さん(79)も、若いころから機織りに取り組んだ。
二人は「この辺りでは、どこの家でも娘が自分の機械を持ち、機織りをしていた。家でできる仕事で収入源だった。当時は織りが生活を支えていたんだよ。みんなそれぞれに家族が機織りしているのを見よう見まねで覚えて、自分なりに工夫した。私たちも教えてもらった記憶はないし、どうやって覚えたのかも分からない」と口をそろえる。
最も忙しかったのは、1960年代後半から70年代にかけて素材が絹からウールへ替わった時期だった。絹とウールでは、織っていても大きな違いがあったという。
水島さんは「1番忙しかったころは、1日に着物1枚分を織った。毎日毎日、機屋さんが回ってきて仕事が途切れることがなかった。絹は値が良かったけど、糸が細くてできあがるまで二日はかかって大変だった。それに比べてウールは糸が太くて織りやすく、1日で完成する。こんなに早く織れるのかと思うと、仕事するのが面白かった」と振り返る。
機屋に納品する品物を仕上げた後に手元に残るさまざまな糸を組み合わせて、自分用を作るのも楽しみの一つだった。
「自分で織って、染めてもらって、仕立てた。自分で織った着物は嫁入りの時に持って行ったりもした。古くなったものは布団や寝間着に作り替えたりもしたよ」と宮沢さん。
周辺の人たちは75年ごろまで、機織りをしていた。二人もそのころまで携わっていた。
宮沢さんは「だんだんと着物を着なくなり、外国製品がたくさん入ってくるようにもなって、仕事が減ってしまった。今では機織り機も物置にしまいっぱなしだよ」と苦笑いする。
二人とも自分の手で織り上げたものは今でも大切にとってある。「手作りしたものは尊い。もうあまり着なくなってしまったけど、一つ一つに思い出があるし、とてもいい記念だよ」