絹人往来

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盛柳組 農家支えた互助組合 市川 春司さん(74) 下仁田町下仁田 掲載日:2007/06/15


 盛柳組の資料を手に「埋もれた歴史に光を当ててほしい」と語る市川さん
盛柳組の資料を手に「埋もれた歴史に光を当ててほしい」と語る市川さん

 「どの家も座繰り機で糸を紡いでいた。昔は下仁田に嫁ぐなら、コメの煮炊きと座繰りの技術が必須だったと、母がよく話していた」
 幼いころを振り返る市川さんは、1960年代ごろまで養蚕業に携わった。父親は養蚕農家の相互扶助を行う地区組合「盛柳(せいりゅう)組」の組頭を務めたことがあった。
 「昔は農家が借金しようとしても銀行の審査は厳しかった。商人に借りても、返済できずに土地や道具を奪われたこともあった。そこで組内での貸し付けや割安となる一括資材購入で助け合っていたらしい」
 盛柳組の創設は明治時代中期以降とみられる。1893年に中小の座繰り製糸場などを営む27組合が結合し、誕生した「下仁田社」に属していたという。
 「組頭だった父は、台風があったりすると、川沿いにある工場が心配で見に行った。どの農家も座繰りをして、町が一つの工場そのもの。数も多く、全体への気配りなどが大変だったと思う」
 下仁田社は1942年に碓氷社、甘楽社と統合し、県繭糸販売組合連合会下仁田工場が設置されると盛柳組も解消された。
 「工場では養蚕農家の嫁や娘が工女さんとして雇われていたので、発展的解消だったといえる」
 工場は町中心街に位置し、繰糸場と乾燥場を兼ね備えていた。数百人単位の従業員がいたため、工場を中心に飲食店が数多く軒を連ねた。
 「片倉工業(旧官営富岡製糸場)でもそうだが、業務時間が終わる夕方になると、工場の周囲には迎えの男性が大勢集まっていた。夜の町は活気があった」
 しかし、61年に工場が三井物産の傘下になると、養蚕・製糸業は下火になり、4年後に工場は閉鎖。跡地は現在、スーパーとして利用されている。
 市川さんは自宅に眠る盛柳組の出納帳などの資料を町に提供、活用してもらおうと考えている。
 「昭和初期の世界恐慌で農家が苦しんでいる時も、組内で助け合うことで東北地方のような憂き目に遭わなかったと聞いている。絹産業に注目が集まっている今こそ、埋もれた歴史に光を当てていってほしい」

(富岡支局 三神 和晃)