絹人往来

絹人往来

養蚕と産業遺産 地域文化の実体験を 中島 悟さん(72) 太田市新田小金井町 掲載日:2007/11/23


父が残した蚕室や小屋を受け継ぎ、養蚕を続ける中島さん
父が残した蚕室や小屋を受け継ぎ、養蚕を続ける中島さん

 春と晩秋、年に2回養蚕を行い、その間に米麦を栽培している。妻・景さんとの2人3脚で10数年が経過した。
 「合理的に養蚕と米麦の栽培を組み合わせているから両立できる。そうじゃないと体がもたない」
 60歳で退職するまで、運転手だった。新車7台を積んで日本全国を走った。定年近くなると運行エリアを狭め、県内にビールを配送するなどしていた。退職して約10年がたつが、畑で農作業をしていると当時の仕事仲間がクラクションを鳴らしていく。
 会社勤めの時も、仕事の合間に父親を助けていた。年間5回ある蚕上げや稲刈りなど多忙時に手伝っていた。
 「2、3時間、自由な時間が出来ると家に戻って蚕に桑をやったり、米麦は大きな機械を使って週末に一気に刈り取っていた」
 定年退職の3年ほど前に父親が亡くなり、岐路に立たされた。
 「農業を辞めようかとも思った。でも、農機具がそろっていてね。もったいないから続けることに決めた。退職までは2足のわらじを履いた」
 「体が動いたから何とかなった。『蚕の世話をしてくれてありがとう』という、おやじの亡くなる前の言葉が忘れられない」
 米麦、養蚕を続ける昔からの農家だ専業になった後、周辺で辞めた農家から、「うちのも面倒を見てほしい」と田を譲り受け、今では4ヘクタール以上の栽培面積を持つ認定農家になった。
 養蚕は出荷までの期間が米麦よりも短いが、昼夜の区別がなく休む暇もない。天気にも左右される。
 「生き物だから目が離せない。きょうは面倒くさいから桑はやらなくていいやという訳にはいかない。その分、面白さはある」
 1度は辞めようと思った養蚕だが、今は体の続く限り続けようと思っている。
 「おやじが機械や設備を残してくれた。良い物を残してくれた。だから、辞めるわけにはいかない」

(太田支社 臂真里緒)