裸電球 収入源の賃織に励む 高橋 サクさん(89) 板倉町大高嶋 掲載日:2006/06/17
家の片隅に置かれていた機織り機の一部分を見つけ、昔を思い出す高橋さん
1935(昭和10)年ごろから約20年間、機屋から賃金をもらって生地を織る賃機(ちんばた)をして、戦前戦後の苦しい時期の家計を支えた。
合併して板倉町となる前の旧大箇野村高鳥に生まれ、22歳で結婚した。
「当時は東京に出てしまう人が多く、この辺では織れる人がいなかった。実家に出入りしていた機屋が嫁ぎ先にも賃機を頼みに来た」
町史によると、周辺の西谷田村や海老瀬村では賃機が盛んに行われていたが、大箇野村は養蚕が盛んな地域で、賃機をする家は少なかった。
「うちは畑が少なかったので養蚕をするには桑畑が足りず、賃機が貴重な収入源だった。東京まで5円で行けたし、田植えも手作業でしていた時代」
技術を買われ、機屋が頼みにくるのは大島紬(つむぎ)のような絣(かすり)柄の高級生地を織る手間の掛かる仕事ばかりだった。賃金とは別に、生地を引き取りに来た機屋が「いいものを織ってくれた」と小遣いをくれたという。
横糸を通すごとに確認する細かい織物だったため、石油ランプや豆電球が主流だった時代に、40ワットほどの裸電球を土間に下げて、家の中で一番明るくして織った。「1日に1丈(約3メートル)も織れなかった。羽織と長着が取れる1匹分を織るのに1カ月近くこともあった」。長女の高橋美津江さん(67)は「メガネを掛けて手元に裸電球を下げて織っていた」と話す。
「『何でそんなに明るくするのか』と言われたって、『見えなくちゃだめだがな』と言い張って織ったんだよ」
兵隊だった義弟のために、絹を買って羽織と長着を織ってあげたことも。機織りが大変と思ったことはない。「それが仕事。織らなければ田んぼや畑の仕事をしないといけない。生活のためだった」と話す。
機屋が糸を持ってきて、織った生地をすべて買い取るため、手元には何も残っていない。機織り機は自宅の建て替え時に資料館へ寄贈し、織物をすることはなくなった。
「でも、ハタシ(機織り機)を持ってきてくれれば、今も織ることができますよ」