絹人往来

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蚕影神社 養蚕の隆盛を証明 川島 要司さん(64) 館林市岡野町 掲載日:2008/09/04


「蚕影神社はこの地域で熱心に養蚕が行われていたことを証明するもの」と話す川島さん
「蚕影神社はこの地域で熱心に養蚕が行われていたことを証明するもの」と話す川島さん

 「ぬれた桑では良い繭を作ってくれないので、雨が降ると桑の葉を乾かさなければいけない。天気が良いにこしたことはない」
 太田市強戸町の実家に隣接する建屋で現在も養蚕を続けている。かつては年4回に上った蚕の世話も、最近は春、夏、晩秋の3度になり、年間10箱の蚕から約150キロの繭を収穫する。
 5世代近く続く農家の家系。「気がついた時から家に蚕がいる生活だった。当時は寝る所もなくなった」と幼少期を振り返る。
 今でこそ、桑の葉を枝ごと切り取って、そのまま蚕に与えているが、当時は桑の葉を1枚1枚丁寧に摘み取り、それを餌にしていたという。現在の作業は機械が中心となり、大半が自動化。「機械化など技術の進歩もあり、だいぶ楽になってきた」と笑う。
 最盛期には地区のほとんどの家が養蚕に従事。「地域のみんなで土地を出し合い、共同桑園もつくった。地域の共同飼育所ではみんなとばか話をしながら作業していたが、その中で養蚕の技術を教え合った」
 一時はその共同飼育所で採桑係も担当。連日、飼育係の指示に従い、軽トラック数台分の桑を仲間と集めてきた。
 「桑が多くとれなかった当時は、木の下の方に生えている桑を晩秋用に残していた。ただ、陽の当たった良い桑を与えないと、蚕は良い繭を作らないので、晩秋はあまり繭を収穫できなかった」
 現在は市内五カ所の桑畑から桑の葉を集めている。「最近は害虫の被害が多くなってきた。消毒をすると、蚕の餌にするまで二週間近く待たないといけない」と顔を曇らせる。
 近所の畑では軒並み野菜を生産しており、「周りの農家が農薬を使わないでいてくれるので、ありがたい。農薬のかかった桑の葉を食べると、蚕が繭を作ってくれない」と蚕の餌に関する悩みは尽きない。
 長年、蚕にかかわってきた知識の蓄積に加え、技術なども進歩したことで、「全部が駄目になることは少なくなった」。それでも、今でも収穫した繭の荷出しを終えると「ほっとする」。そう語る表情は穏やかだ。

(太田支社 毒島正幸) 自宅近くの小高い丘の上に祖父の代から受け継ぐ祠(ほこら)がある。周囲には山岳信仰にまつわる石碑など数基が立ち、近所で「浅間(せんげん)さま」と呼び親しまれている。
 「子供のころから見知っている場所だけれど、お蚕の神様が祭られていたことは知らなかった」。立ち並ぶ石碑の一つに「蚕影(こかげ)神社」の文字を見つけたのは20代半ばを過ぎてからだったという。
 「結婚して数年たったころ、社(やしろ)が傾いてしまっていたので建て替えた。この時、祭事をお願いした地元の神社の宮司さんから教えられて初めて知った」
 祖父は近隣で“先達さん”と呼ばれた。生まれつき目が悪く祈●(きとう)師をなりわいにしていた。両親は農家だったが、養蚕にはかかわらなかった。
 「石碑の建立の日付は『明治26年4月』とある。祖父が本家から分家したのがこの2年後の1895年だから、もともとあった蚕影神社を分家に伴って祖父が引き継いだ格好になるが、これ以上の由来をたどるのは難しい。おそらく、大規模に養蚕を手掛けていた本家で豊作を願って祭ったものなのだろう」
 子供のころの記憶では、祠は一面の桑畑の真ん中に突き出た高台にあった。「アカマツやモミジの木陰があって、見晴らしが良いので写生をしたり、弁当を食べたりした。今でもさい銭を上げていく人がいるが、それだけ地域に親しまれていたということだろう」
 渡良瀬川河川敷の桑の葉を牛の飼料用に刈ったこと、学校帰りに食べた「ドドメ」の味と、桑の木にまつわる思い出は数々あるが、30数年の会社勤めで、養蚕とは無縁に過ごした。結婚間もないころ妻、益枝さん(62)の実家で手伝った繁忙期の上蔟(ぞく)作業が蚕にかかわった唯一の体験だ。
 「はた目に見ても、養蚕の大変さは分かる。地域では早くに養蚕が行われなくなり、桑の木も姿を消した。衰退は時代の流れで致し方ないことだろう。ただ、蚕影神社はこの地域で一時期、熱心に養蚕が行われていたことを証明するものだ。代々引き継ぎ守ってきたこの神社を、これからも守ってゆかなければいけない」

(館林支局 坂西恭輔)
編注:●は"示ヘンに寿の旧字体"