絹人往来

絹人往来

読者から「絹の記憶」 掲載日:2007/3/8


◎工場で寂しさ紛らす 丸茂義人さん(84) 高崎市新町

丸茂製糸工場敷地内に設けられた私立丸茂実業女学校の授業風景(1922年)
丸茂製糸工場敷地内に設けられた私立丸茂実業
女学校の授業風景(1922年)

 私は新町の丸茂製糸工場全盛時代に工場主の子として生まれた。大正11年であった。
 4歳にして母を亡くし、寂しさのあまりよく家の敷地内にある工場に遊びに行った。女工さん500人収容の寄宿舎には行けなかったが、当時女工さんのために工場内に実業女学校が開校されており、事務所の2階の教室をのぞき込んだり、女工さんのための髪結い室の片隅に売店があり、小銭を持って、こっそり買いに行ったりした。
 女工さんはみなよい人ばかりであった。聞くところによると、山間部で小学校卒業後、女学校に行きたくても行けないために働きに出された人たちが多いという。それで向学心もあり、難しい糸取りの技術もすぐ覚えるとのことであった。特に教婦さんは優しくて母親のにおいがした。
 当時絹糸は輸出の花形であり、糸取りの湯気の中で一日中顔をさらしてサナギのにおいがしみついた女工さんたちを、今懐かしく思い起こすのである。


◎“プロ”相手に稚蚕飼育指揮 有間精一さん(71) 前橋市富田町

 構造改善事業で上富田養蚕組合が大部屋式の稚蚕共同飼育所を始めたのは昭和44年度からでした。その飼育所役員の選出にあたり、新しい飼育方法だから、何も知らない人たちの方が良かろうという理由で私たちが選ばれてしまいました。私は飼育主任で34歳、栽桑主任が33歳、機械主任が32歳。
 それまで農家個々で、主に女性が稚蚕飼育をしてきました。飼育理論も作業経験もなく、蚕も分からない私たちが間違いが許されない状況の中、稚蚕飼育のプロの女性たちを相手に飼育の指揮をとることは、心苦しい限りで、言語に絶するストレスでした。
 掃き立て前日の飼育室の温湿度の管理、蚕に与える桑の収穫、蚕座紙の敷き込みなどから始まって、10日間24時間態勢で飼育に当たりました。
 飼育標準表を頼りに初日の仕事を終え、翌日の作業予定をたてるのに、前年の参考資料も経験した人もいません。これが10日間続きました。役員の気力、体力も限界ぎりぎりです。役員一同、一致協力してこれを乗り切った体験は、私の人生にとって最も苦しいものでした。あれから30数年を経た今、少しですが楽しい思い出になりつつあります。
 現在、養蚕不況の中で体力の続く限り良質繭の生産に努めて行くつもりです。養蚕は私の人生です。


◎楽しかった共同飼育所 吉田江美子さん(68) 吉井町上奥平

 わが家の片隅にはまだ蚕の飼育台が積んである。養蚕をやめて十数年、これからも決して使うことはないだろう。
 生まれた時から蚕と一緒に育って来た。この家に、私が嫁いで来たころは養蚕の最盛期だった。稚蚕共同飼育所が建設され、村は活気づいていた。そして、飼育台の導入は労働力が省力化されみんな増産に踏み切った。
 共同飼育所は若いお嫁さんにとっては、地域の人たちとの唯一の社交場でもあった。仕事は決して楽ではなかったけれど、作業をしながらおしゃべりをするのは本当に楽しかった。
 養蚕をしているころは地域に一体感があった。隣近所どこの家でも蚕を飼っていたので、会うとあいさつ代わりに、休んだ、とか、幾日目だとか、最初に出る言葉は蚕の成長の様子だった。また、誰よりも大きな繭を取るぞ、とひそかな闘争心もあった。
 養蚕の仕事は本当に大変だった。特に大桑と言われる上族(じょうぞく)前の1週間は桑を切っても切っても、間に合わない日が多く早朝から夜迄休む間もなく働いた。自分の家の桑だけでは足りず、遠くまで桑買いに行った。そして上蔟、体も限界に達していたが、みんな頑張った。白い繭を見ると充実感でいっぱいになった。養蚕をやめて以来あれほどの充実感に浸る事はめったない。


◎母が生涯悉皆屋守る 山口輝子さん(70) 渋川市半田

 今年も年中行事の寒中虫干しを済ませほっとした気分。着物一枚ごとに思いを巡らせ、たんすに納めた。
 生家(有馬)は悉皆(しっかい)屋だったので、物心ついた時には絹の中で育っていた。祖母が得意先から預かった着物の染め変え、また農家が手織りした生地を柄に染める等々、大風呂敷で背負い帰ってくる。
 冬の夜長、大人たちは着物の解端(ときは)縫(ぬ)い、染め変え、洗い張り、無地染め等に区分けする。山と積まれた絹の中で、私たちきょうだい5人はラジオを聞きながら、大人の仕事を見ていた。
 父は反物を練る、洗い張り、伸子(しんし)張り等をする。染めの工程は、高崎の捺染(なっせん)屋、無地染め屋、紋屋、整理屋等へ出す。交通機関はチンチン電車があったが、荷物が大量にある上、高崎市内を移動するので自転車が都合よかったのか、特別注文の荷台の大きな自転車だった。
 冷たい北風の吹く夕方、お尻をもちあげ力いっぱい自転車をこいで家路に向かう父の姿は印象に強い。その父も後に勤め人になり、母が人々との和を大切に生涯采皆屋を守り通した。