絹人往来

絹人往来

女手 父亡き後の生計支える 立川ツヤ子さん(85) 明和町梅原 掲載日:2006/08/12


「この車輪と竹かごは養蚕をしていた証し」と話す立川さん。後ろは蚕室として使った2階屋
「この車輪と竹かごは養蚕をしていた証し」と話す立川さん。後ろは蚕室として使った2階屋

 三姉妹の二女。自分が生まれる前から家で蚕を飼っていたが、6歳の時に父親が病気で亡くなり、祖父母と母親が、蚕飼育用の木造2階屋を建てて養蚕を大規模に始めた。昭和30年代前半まで養蚕で生計を立てた。戦前の最盛期には、蚕種120グラム飼育し、1回に300キロほど繭を出荷したこともある。
 「飼育期間が短い養蚕は、女の人でもできる一番の現金収入源だった」
 最も忙しい春蚕(はるご)から始まり、夏、晩秋と年3回飼った。「当時は少しでも多く飼って、たくさん繭を取りたいと考えていたので、つらいというより楽しかった」
 春は、枝を根元から切って蚕に与え、夏は枝の下部の葉を一枚ずつ摘み、秋に残りの上部を与えた。「新鮮な葉が必要なため、朝、昼、夕の1日3回の桑摘みが欠かせなかった」と話す。
 浅間山が噴火して、桑に灰がかかってしまったことも。
 「その時は大騒ぎで、小さな蚕が病気にならないように、桑の葉を一枚一枚水で洗って蚕に与えました」
 病気に弱い稚蚕を育てるのは母親の仕事だった。母屋の8畳一間の障子を張り替え、目張りして消毒してから蚕を入れた。「自分たちは寝る所しか残らないくらい。『お蚕(こ)さま』として大切に育てた」。大きくなった蚕を2階建ての蚕室に移し、軒先にトタン屋根のバラックを増設して飼った。
 「繭を作る前の蚕が桑を食べる音は雨が降ったよう。上蔟(じょうぞく)は家族総出で、非農家の人にも手伝ってもらわないとできなかった」
 冬場の農閑期には、機屋から賃金をもらって機織りする賃機(ちんばた)もした。組み立て式の機織り機が3台あり、台所に置いて、母や姉と一緒に絹がすりを織った。母が織ってくれた「娘時代の晴れ着」は、今も大切にしまってある。
 繭は特製の大かごに入れ、荷車で引いて、地元の川俣や、利根川対岸の羽生(埼玉県)にも出荷した。2階屋は移設して、現在も物置として使っている。養蚕道具の多くは、自宅の建て替えを機に処分したが、荷車の一輪と竹かごだけは物置の片隅に残してある。
 「現在の自分があるのは養蚕のおかげ。その証しです」

(館林支局 紋谷貴史)