絹人往来

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転換 気候生かしリンゴに 永井 文男さん(82) 片品村針山 掲載日:2008/08/26


桑の木の下で「子供のころは夢中で葉を摘んだ」と振り返る永井さん
桑の木の下で「子供のころは夢中で
葉を摘んだ」と振り返る永井さん

 「子供のころ、桑の収穫をよく手伝った。畑の周囲に大きな桑の木があって、蚕が好きそうな柔らかい葉を選んでね」
 代々続く養蚕農家の長男に生まれ、物心ついたころから蚕に触れていた。毎年、蚕の季節が来ると、大勢の人が手伝いに来た。「桑の葉がすぐにいっぱいになって、かごに入りきらないときは、蚕屋まで運ぶのを大人に手伝ってもらった。たくさん取って褒められた時は、うれしかったね」
 蚕の糞(ふん)は、麦、大豆、あわなどの肥料にも使われた。「化学肥料が無かった時代だから、糞は栄養分が豊富で最高の肥料になった」
 しかし、同村針山地区の標高は約千メートル。山々に囲まれ、1年間の3分の1が雪で覆われてしまうため、農作物の収益性は低かった。養蚕も、桑園が霜害に遭いやすく、平野部と比べて、収量差は大きかった。
 「気候が冷涼な片品村でも安定的に栽培できる農作物はないのか」
 尋常高等小学校を卒業後、農業学校に進学した時、冷涼な気候にも強いリンゴ栽培の技術に出合った。
 「まだ学生だったけれど、試験的に苗を植え始めたのがこのころ。先祖代々、家計を支えてきてくれた養蚕からの転換は、先が見えないし、親に反対された」
 それでも、村の気候に合った農業が不可欠だと確信。20歳ごろから、それまで麦や大豆を作っていた畑に、リンゴの苗を植えて増やしていった。
 朝夕は蚕の世話と桑の収穫を行い、日中はリンゴ畑の手入れ、という具合に交互に作業。こうして少しずつリンゴ栽培への転換を進め、1960年ごろ、完全に転換した。
 あれからおよそ半世紀。かつて農作物を栽培していた畑は、今ではリンゴの木々が並ぶ観光農園に変わった。「リンゴ栽培に反対していた父が、晩年に褒めてくれたのがうれしかった。認めてもらえてほっとした」と振り返る。
 「養蚕収入の一部をリンゴ栽培に少しずつ回してやりくりした。養蚕は今の生活の基盤を担ってくれた掛け替えのない存在だった」。リンゴ園の周囲に立ち並ぶ桑の木を温和な目で見つめる。

(尾瀬支局 霜村浩)