製糸場 女性多く街にぎわう 丸茂 義人さん(84) 高崎市新町 掲載日:2006/12/1
工場の資料を手に、「たくさんの女工さんが街に繰り出し、活気があった」と話す丸茂さん
1877(明治10)年、新町屑糸(くずいと)紡績所(のちの鐘紡)が開業した旧新町。その後も民間の大きな製糸工場が建設され、町の産業は発展した。大正6年に創立し、戦後はナイロン糸の加工などで2000年ごろまで操業した「丸茂製糸場新町工場」はそのうちの一つだ。
「シンボルは3階建ての繭倉庫と煙突。現在の新町中学校、新町保育園周辺の約12000坪の敷地にあり、五百釜の繰り糸器を備えた。うちの工場で出た屑糸が鐘紡の紡績に回り、お互いに補完しあっていた」
曽祖父が長野県で興した製糸場が前身で、工場は新町のほか山梨県など計4カ所に進出。父・米重は新町工場を預かり、昭和初期に新町長も務めた。
「丸茂製糸場は養蚕の盛んな地域に繭買入所を作った。新町の買入所は明治30年に開業し、現在の郵便局にあった。早くから群馬の繭に目を付けていたんだろう。製糸は『原料8割』と言われた。富岡の片倉製糸が伸びたのは蚕種まで進出し、均等に良い繭を作ったから。うちの工場は繭を安く買い、女工の質を高めるしかなかった」
丸茂製糸場の従業員650人のうち、500人は女性。遠くは東北や信越地方、吾妻、奥多野からも故郷を離れ、尋常小学校を卒業して勤めに出た従業員が多かった。
「女工さんの教育のため、父は工場内に女学校を創設した。当時の製糸場として県内では唯一。小学校の校庭を借りて開いた運動会では、出身地の異なる従業員が楽しめるように上州と越後の二つのやぐらを組み、それぞれの盆踊りを行った。夜になると女工さんが街に繰り出し、町の映画館などはとてもにぎわっていた」
幼いころに母親を亡くしており、女性従業員は母親や姉代わりだった。
「自宅が工場内にあったので、女工さんが通う髪結い室や売店には良く顔を出した。『ぼっちゃん』と呼ばれてかわいがってもらった。順番に抱っこをしてくれるのだけど、みんなの体に染み付いた蚕の臭いに閉口した。何十年も前の事なのに、あの臭いだけは忘れられない」