鐘紡学院 教室にミシンずらり 小林 道子さん(73) 高崎市新町 掲載日:2007/2/1
新町工場で洋裁講師を務めた縁で紡績所の保存活動にかかわる小林さん
高崎市新町の鐘紡新町工場(現カネボウフーズ新町工場)では、従業員用の社宅や寄宿舎が立ち並んでいた。紡績などの仕事に携わった女性従業員の寄宿舎には、洋裁などを教える「鐘紡学院」があった。
「東京の専門学校で服飾技術を学んで教員資格を取得した後、高崎の洋裁学校を経て、鐘紡学院で12年間にわたり洋裁を指導した。旧新町収入役を務めた祖父も、この学院で漢文を教えていたことがある」
学院長は、群馬女子短大(現・高崎健康福祉大学)の初代学長、須藤いま子さん。洋裁、和裁、編み物の3コースがあり、華道や茶道教室も開かれることがあった。
「中学卒業後にすぐ鐘紡に就職した子もいたので、10代くらいの若い子が中心。仕事のローテーションに合わせて授業時間が変わり、授業時間は午前9時からお昼までと、午後6時から午後9時まで。仕事が終わると学院に来る子、学院が終わってから仕事に向かう子もいた。若い女性従業員を募集するにあたり、鐘紡も福利厚生に力を入れ、教育熱心だった。成人式には和裁の先生とともに生徒に着物を着せたりした」
洋裁クラスの生徒は多い時で30人。教室にはミシンの机がずらりと並んだ。1年で初級、2年目で上級の資格を取ることができた。
「夏はスカート、ブラウス、ワンピース。冬はスーツかコートを仕立て上げた。中には鐘紡を辞めて洋裁の道を選んだ子もいたが、多くの女性従業員は20代初めに結婚して工場を辞めていったので、学院は専門技術者を育てることよりも花嫁修業の場だった」
年に一度の学院の文化祭では、工場の食堂でファッションショーを開いた。
「購買でシルクを買い、ドレスやワンピースを作った。生徒は工場内の美容院で髪をセットし、私はモデルの歩き方も教えた。従業員や家族が見に来て、にぎやかなイベントだった。生徒の中には、家に仕送りをしていた子もいたと思う。でも、みんな勉学に励み、おしゃれも楽しんだりして青春時代を謳歌(おうか)していた様子だった。化粧品や洋服を扱うお店もにぎわっていた」
学院は昭和50年ごろに閉鎖。今は「よみがえれ!新町紡績所の会」の中心メンバーとして、同工場内に現存する新町屑糸紡績所の保存・啓発活動に力を注いでいる。