絹人往来

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水車 懐かしい音もう一度 須田 信宏さん(80) 桐生市織姫町 掲載日:2006/08/24


「もう一度、上げ下げ式水車を動かしてみたい」と模型作りに励む須田さん
「もう一度、上げ下げ式水車を動かしてみたい」と模型作りに励む須田さん

 「水路と水車が桐生産業の裏方として重要な役割を果たしたことは、長く桐生の歴史の1ページを飾ることになるだろう」
 実家の「須田撚糸(ねんし)工場」をもり立てた父が残した言葉だ。当時、桐生市内には約400の撚糸水車があった。家の近くの水路にも、水輪を上下させて回転を調節する「上げ下げ式水車」が連なっていた。
 「水輪を上げ下げするのは子供の役目だった。輪っかの中で遊んだり、水車にできたつららでちゃんばらしたりもした。水車が好きだったから手伝いも苦じゃなかった」
 戦前、織物産業が全盛の時代は目の回るような忙しさで、10歳のころから毎日のように手伝った。
 「機屋さんが一番勢いのあった時代だった。年季娘(ねんきっこ)といって、全国から奉公に出された娘たちが安い賃金で働いたから、もうかったろうね。おつかいに行くと高級品だったようかんをくれた」
 撚糸業に携わったのは、昭和20年から約5年間。「ガチャ万」といわれる織物産業の最盛期だった。
 「当時流行った言葉に『こら千』というのがあった。厳しい時代で、機織りしているのが見つかると、『こら』と役人にとがめられる。そこで千円を渡すと黙認してくれた。とにかく作れば売れたから、みんな必死にやった」
 この時代によそ行きの着物として「桐生お召し」が流行。撚糸業も景気がよく、水車は一日中回り続けていた。
 「お召しの糸は撚よりが複雑だから、加工賃がよかった。仕事はいくらでもあったから、出来上がった糸を一日に何度も機屋さんまで運んだ」
 その後、繊維産業は衰退し、家業は鉄工所に変わった。父は引退後も水車についての記述や図面を記し続け、7分の1サイズの模型も作った。
 「上げ下げ式の水車は桐生独自のもの。水を受けて回る時の音を思い出す。もう一度自分で動かしてみたい」
 いつしか自分もそう思うようになり、今は自宅前で実物の半分の水車模型を製作中だ。
 「この場所で育った自分にとって撚糸水車は特別なもの。また、本物にこの手で触れみたい」

(桐生支局 高野早紀)