絹人往来

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炭番 共同飼育で負担減 原口美津子さん(72) 明和町大輪 掲載日:2006/09/27


「この竹かごは今も使っています」と話す原口さん
「この竹かごは今も使っています」と話す原口さん

 20歳で嫁いだ農家で、ブドウ栽培に切り替えるまでの17、8年間、養蚕を続けた。
 「養蚕は女の仕事だったが、義母はすでに亡くなっていて、掃き立てした蚕にどんな桑の葉を与えれば良いのか、育て方をまるでわからず、近所の農家や住み込みのおじいさんから教えてもらった」
 飼育法を早く覚えようと、養蚕日記を付け始め、桑を与えた回数、飼育温度、蚕の様子など細かく書き留めた。
 「日記がとても参考になった。桑を何回食べると休眠するとか、指導に来る養蚕教師よりも良く分かるくらいになった」
 昭和30年代後半、屋敷の桑畑約8アールに、泥壁で仕切った蚕共同飼育用の木造小屋を建てた。当時は農家に嫁が来なくなり始めたころ。嫁の負担を少しでも楽にしようと、農家数十戸からなる養蚕組合のメンバーで、2眠まで共同飼育するようになった。大輪地区だけでなく、川俣地区などからも稚蚕をあずかった。
 当番表をつくり、昼間は当番数人で桑を与え、夜は組合役員が泊まり込んで炭の番をした。
 「温度変化に弱い稚蚕の世話は大変だったので、本当に楽になった。桑摘みの時に、仲間と情報交換を兼ねて談笑するのがとても楽しかった」
 しかし、稚蚕の共同飼育も長くは続かなかった。働き盛りの夫が事故で体に障害を負ってしまい、農業も近代化へ進み始めていた。時代変化に対応しようと、砂地の畑の桑を引き抜き、少しずつブドウの苗木を植え始めた。
 しばらくして桑畑に隣接する水田で農薬をまくようになり、飛散農薬のかかった桑を食べた蚕が、青い水をはいて死ぬようになった。「これ以上は無理」と養蚕をあきらめた。町内では最後まで養蚕をしていた大輪地区だったが、徐々に衰退し、ブドウ栽培へと転換していった。
 「養蚕もブドウ栽培も初めての経験で、毎日が勉強だった。蚕の収入は多かったが本当に大変。給桑を忘れて、蚕がわさわさと棚からはい出す夢を今でも見ますよ」
 繭出荷用の大きな竹かごは、現在もブドウ栽培で使っている。角の一部がほつれた竹かごに、養蚕農家だった歴史が刻まれている。

(館林支局 紋谷貴史)