手間省け1トン目指す 共同飼育所 堀上仁左衛門さん(86) 川場村生品 掲載日:2008/10/04
飼育台に使った網を広げながら「飼育所をきっかけに地域の養蚕が盛んになった」と語る堀上さん
42歳で川場村生品地区の養蚕組合長に就任し、すぐに共同飼育所の建設に取り組んだ。
「当時の生品地区には百軒ぐらい養蚕農家がいたけれど、養蚕技術にばらつきがあって、人の手も足りなかった。改善には、共同飼育所が欠かせないと思った」と建設を提案した。
当時、村の年間予算3000万円の時代に、20万円の補助金が出た。すぐに申請して建設許可をもらい、翌年には、生品地区に初めての共同飼育所が完成した。
「おかげで農家の手間がかからなくなり、失敗も少なくなった。収入が安定し始め、養蚕はどんどん盛んになった」
養蚕農家の長男に生まれ、物心ついたころには蚕に触れていた。
「家の蚕屋には100枚ぐらいのかごがあって、そこに蚕を飼っていた。春蚕(はるご)の季節には、学校が一週間休みになった。桑の葉を取るのは大変な作業だったから、一生懸命手伝った」と子供のころを振り返る。
21歳の時、太平洋戦争で中国に出征。ニューギニアへ転戦途中の海上で、乗船していた輸送船が敵国の潜水艦に沈められたり、戦後になっても、中国での捕虜生活を強いられた。46年に帰国したが、マラリアを発症して3カ月間入院することもあった。
生品地区の共同飼育所完成をきっかけに、近隣地区でも大きな共同桑園が建設されたり、別の共同飼育所も建てられた。
「蚕1トンの出荷を目標に30人からなる『1トン会』ができて、収量を競った。自分も仲間に入って1トンを目指したよ。養蚕を核に、地域が切磋琢磨(せっさたくま)して一つになれた時代。結果的にいい蚕ができた」
80年ごろには、養蚕道具の電動化も進展。それまで手回しだった飼育台やけば取り機などが自動化された。「春蚕から晩々秋蚕まで、年に5回も収穫できるようになった」
山形県の温泉や東京見物―。「最後の蚕の出荷を終えて、仲間と旅行に行くのが毎年の楽しみになった。『今年はどこに行こうかね』と言って、頑張った」。飼育所の存在は、養蚕農家の経営を安定化させ、生活にゆとりをもたらした。