絹人往来

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台帳 灰になる寸前手元に 荒木 弘治さん(71) 藤岡市藤岡 掲載日:2008/01/09


「受け付けた繭を6トン車に積み切れず、1日に2往復も3往復もした」と資料を前に語る荒木さん
「受け付けた繭を6トン車に積み切れず、1日に2往復も3往復もした」と資料を前に語る荒木さん

 戦後の製糸業の1翼を担い、解散した群馬蚕糸製造(グンサン)の株主名や配当金額が記載された台帳を保管している。1948―49年の「第4期 配當金支拂臺帳」の表紙がついた台帳に県内外の株主名がずらりと並び、山崎証券(後の山種証券)などが多くの株を引き受けていたことが分かる。
 グンサンに20代半ばから50代前半まで勤めた。台帳は退職後の2000年、藤岡市内の本社工場の解体工事直前に、真っ暗な糸蔵から持ち帰った。
 「何かあれば持っててと言われ、書類があるな、と思って手探りでつかんだら、この台帳。灰になる寸前だった。一通り見終えたし、個人で持ち続けるべきものでもないと思っている」
 人事の社報のつづりも見つけ、解体前の建物や設備はスナップ写真に収めた。繰糸機の小枠や感知器、給繭器の1部も手元に残した。生糸が巻き付いた状態だったボビン(糸巻き)は手作りの箱に収め、元女子工員らに贈った。
 下仁田町川井出身。組合製糸の旧下仁田社の流れをくむ下仁田工場が振り出しだった。トラック運転手を4年間務め、ボイラーの燃料のおがくずや薪(まき)を製材所から搬入した。製品集約のため、高崎の本社へ生糸を運び、他工場の運転手と交代で横浜へ輸送。甘楽多野地域を回り、繭も集めた。
 「盆と暮れ以外は工場が動き、200人以上働いていた。当時は4工場で原市、室田、中之条と一緒の社員旅行はバス18台。にぎやかだった」
 高崎勤務を経て、藤岡に異動し、トラックに乗りながら倉庫係として繭を運搬、製品を前橋市内の検査所に運んだ。
 工場解体後、残務整理の担当者から連絡を受け、下仁田事務所関係の写真や非売品の冊子も引き取った。写っていた警察官の制服から、旧下仁田社の写真の撮影時期を特定するなどした上で、資料の多くを下仁田町ふるさとセンター(歴史民俗資料館)に寄贈した。
 「今また、シルクが脚光を浴びている。大事に扱ってもらい、展示会でも開くときに活用してもらえれば」

(富岡支局 西岡修)