絹人往来

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土室育 農家の生活安定に寄与 福田 剛士さん(75) 中之条町上沢渡 掲載日:2006/11/08


「出荷が安定しなかった地域で寝ずの指導をした」と話す福田さん
「出荷が安定しなかった地域で寝ずの指導をした」と話す福田さん

 1949年、新しい技術を普及させるためにできた蚕業技術指導所の職員になった。時を同じくして、県蚕業試験場が稚蚕の共同飼育法を開発。指導所の職員は、「土室育(どもろいく)」と呼ばれた群馬式稚蚕簡易飼育法の普及にあたった。
 「就職してすぐ県の試験場に2週間缶詰めになって、土室育についていろいろな研修を受けた。次の年から高崎の指導所に配属になって、共同飼育の指導を始めた」
 当時、約40軒の養蚕農家があった乗附地区が、高崎のほかの地域に先駆けて土室育を導入。共同飼育所には6部屋の土室と桑切り場、管理室があった。組合の役員と2人で泊まり込みながら、1千万匹以上の稚蚕の飼育にあたった。
 「まだ19歳で、蚕のことはあまり分からなかった。先輩にどうしたらいいのかと聞いたら『稚蚕共同飼育標準表の通りにやれば間違いない』と言われて送り出された」
 飼育標準表には、1日ごとの給桑方法のほか、温度や湿度、蚕座面積、注意事項まで細かく記されていた。
 「3眠で農家に配蚕するまで、準備を含めて12、3日間、管理室に泊まり込んだ。土室は炭火で温度管理していたので、夜中の2時でも3時でも起きて調整しなくちゃいけなかった」
 気温や天候によっても蚕の状態は変わり、目が離せなかった。配蚕後も1日置きに農家を回り、病気が出ていないか確認する日が続いた。
 「試験研究機関が開発した技術をいかに伝えるかが職務だった。自分が失敗すれば『だめじゃないか』と普及しなかった。今考えれば、あの若さで先生なんて呼ばれて、あんなプレッシャーのある仕事を任されていたなんて…。毎年春になると、桑の芽が出るのが怖かったほどだ」
 養蚕が生計の根幹を成していた時代。命懸けで蚕を飼う農家と全力で向き合った。
 「今でも観音山に行くとあのころを思い出す。苦しくなったとき、烏川のほとりでリンゴをかじっていたことを」
 県職員として高校卒業後から40年間、養蚕の技術普及に尽くした。
 「時代とともに養蚕技術はどんどん進化した。でも、出荷量と農家の生活の安定には稚蚕の共同飼育が大きく寄与したと思う」

(中之条支局 吉田茂樹)