型紙彫刻 染織支えた技に愛着 飯塚 平一さん(90) 館林市当郷町 掲載日:2008/10/08
型紙を使った紙刷りを見ても仕事の確かさが分かる。「孫子の代まで伝えたい」という飯塚さん
図案師が描いた柄をカーボン紙と鉄筆で紙に写し取り、各種小刀を使い分けて切り抜く。型紙彫刻は写真型が用いられるようになるまで、染織業界を支えた伝統の技だ。
「帯の型紙は彫りのあらが目立つので特に難しく、専業の人が多かった。自分は帯でも着物用の反物でも何でもできた」
彫刻師の仕事をやめて数10年だが、体で覚えた技術は忘れようがない。手先の微妙なこつも、鮮明に記憶している。
「葉っぱの先や鳥の羽など、うまい人は変化を付けて自然味が出せる。刃を2枚重ねた小刀を使う2梃(ちょう)彫りは刃先の幅が広がると難しかった。腕を立てるようにしないときれいにできない」
館林市内の紺屋の長男に生まれたが、父親が亡くなり店じまい。14歳で栃木県足利市にいた叔父の所に弟子入りした。
「中島飛行機で飛行機造りもしてみたかったけど、いや応なしだった。親方は身内でも厳しかった。2年ぐらいはいとこの子守と朝晩の飯炊き、机の前に座れるようになったのは3年目。早く1人前に仕事を任されるようになろうと毎日一生懸命だった」
型紙彫刻で彫りとともに大切なのが型紙を完成させる補強作業。絹糸を格子に編んだ紗(しゃ)を張り付ける「紗張り」も1人前になって初めて許される作業だった。
「漆をガソリンで溶いてみそ汁ぐらいの濃さにするとちょうど良い。これを新聞紙の上に置いた型紙に塗ってその上に紗を張り付け、また漆を塗る。3回ぐらいに分けてやらないと細かい線がつぶれちゃう。これも、はけの手加減が難しい」
戦争を挟んで戦後もしばらく彫刻の仕事を続けたが、写真型が生まれて仕事は激減。「自然になくなってしまった」という。
その後、町工場などに勤めて過ごしたが、彫刻師時代の道具類はいつでも手近な場所に置いていた。
「せっかく覚えたのに忘れたらもったいない。いつまでも残したい気持ちがあった。孫子の代まで、おじいちゃんはこんな仕事していたんだって伝えられればうれしい」
自宅には文字や花鳥の図案を彫った最近の作品も飾られている。