絹人往来

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赤城型住宅 守り続けた梁、柱 塩原 潤一さん(73) 前橋市田口町 掲載日:2006/09/09


製糸工場跡の建物が残る場所で当時を振り返る今井さん
思い出が詰まった家を守り続ける塩原さん(右)と妻つねさん(左)

 近くを流れる小川の涼しげな音がよく聞こえる。国道17号沿いとは思えないほど、静かな場所に木造2階建ての古い養蚕農家は建っている。
 「物心ついた時から、ずっとここで蚕を育ててきた。雨漏りが大変だが、取り壊して新しい家を建てる気分にはならなかった」
 赤城山を望むこの地方特有の養蚕に適した赤城型住宅。昭和の初めに2階部分と屋根を改築、わらぶき屋根を瓦ぶきにしたが、中の梁(はり)と柱は建築当時のまま。黒光りするケヤキの柱が家の歳月を感じる。
 「建てた時期は詳しく分からないが、旧南橘村役場の記録では、明治19年にはすでにこの場所にあった。120年ぐらいたっていると思う」
 代々続く養蚕農家。蚕を育てる4月から9月までの間、住み込みで働く大勢の人に囲まれてこの家で育った。東京農工大学で養蚕を学んだ後、1997年まで、母屋の2階と別棟の1、2階で、養蚕農家に出荷する卵と繭を作った。
 「多いときは合わせて15、6人が一緒に住んだ。みんなで5升釜二つを囲んで食べたのが一番の思い出」
 1966年の台風で、2階の土壁が風雨で崩され、繭がだめになってしまったこともある。
 「翌日の出荷のために収穫した繭が、通常の6分の1程度の値段しか付かない汚れ繭になってしまった。経済的にも精神的にもショックだった」
 蚕が十分に成長し、繭を作り始める上蔟(じょうぞく)が無事終わると、みんなを居間に集めて、ごちそうでお祝いをした。
 「今までの忙しさから解放されてほっとする時。普段言えないことを言ったりして、にぎやかに過ごした」
 かまどからガスレンジへ。家庭生活の形が変わり、改築が必要になるところが出てきたが、できるだけ当時の造りを残した。
 「大工が邪魔だと切ろうとした手すりも何とか残すことにした。維持するのは経費も掛かって大変だが、できる限り住み続けたい」
 くぎを1本も使わずに組まれた梁と柱は今でもしっかりと家を支え、これからも家族の生活を見守ってゆく。

(前橋支局 田島孝朗)